ハリド日記~ハリドのOfficial Blog~

行ってみたところや世界の雑学など

6世紀のアラブ世界について考えてみた。

歴史の陰に隠れた6世紀

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イスラーム以前のメッカを想像するのは難しい

アラビア半島イスラームが広がった7世紀。

 

ムハンマドは、アラビア半島の諸部族をイスラーム共同体に組み込んでいき、その後の正統カリフの時代には、旧来のアラブ世界を超え、東は中央アジアから西はベルベル人の地域に至る地域をその版図に組み込みました。それとともに、北アフリカではアラブ化が進み、アラブ世界も大きな広がりをみせていったのでした。

 

しかし、そんな7世紀に至るまで、アラブ世界はどんな状況だったのか、考えたことがあるでしょうか。多くのムスリムが、6世紀のアラビアをジャーヒリーヤ(無明時代)と呼び片付けてしまっていますが、その内実は、けっこう面白かったりするので、記事化することにしました。

 

イスラーム化以前も広大なアラブ世界のこと、アラブ人の部族名は挙げるときりがないので、ここでは、そうしたアラブ人部族が築いた王国・王朝についてまとめてみようと思います。

 

 

ヒムヤル王国

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ヒムヤル王国の首都サナアは現在も栄える

アラビア半島の南西部(およそ現在のイエメンに相当)で大きな影響力をふるった大国です。ヒムヤル王国は、後述の「キンダ王国の建国に関わった他、隣国のハドラマウトやサバ王国を併合し、南アラビアを支配する大国となりました。この国はアラビア半島では最も強大なユダヤ国家(※もとは天体信仰の国)でしたが、東ローマ帝国からの宣教師を含むキリスト教徒の虐殺に際し、隣国のキリスト教国家「アクスム王国」(現在のエチオピア)と東ローマの反感を買い、525年に滅亡しました。その後、570年からはササン朝ペルシアの直接統治下に入ります。

 

キンダ王国

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キンダ王国の首都アル=ファーウの遺跡

イエメンからアラビア半島を北に抜ける内陸の交易ルートを確保したいヒムヤル王国が、アラブ人部族のキンダ族の族長を王と任命するかたちでアラビア半島中部に築いた王国です。この王国は、ヒムヤル王国に従属するユダヤ国家という立場ではありましたが、アラビア半島中部の砂漠地帯に住むアラブ人遊牧民を統合した画期的な王国でした。一時は北方のアラブ王朝、ラフム朝(後述)にも打ち勝ち、ササン朝ペルシアのお膝元だったメソポタミアをも征服する勢いを見せましたが、後ろ盾であったヒムヤル王国が525年に滅亡するとともに、王国はあっけなく分裂してしまいます。その後、アラビア半島中部は各部族が連合を築く部族社会へと再び戻ることになります。

 

ラフム朝

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ラフム朝の首都ヒーラの遺跡。

ローマとペルシアの国境地帯にあたるメソポタミア(現在のイラク)に誕生したアラブ王朝です。隣接するササン朝ペルシアの脅威となったラフム朝は、325年にはペルシア軍の進軍で首都ヒーラを攻略されました。しかし、国境地帯の保全に利用価値があると判断したペルシア側は、ラフム朝をローマの勢力圏や南方のアラブ人諸部族との緩衝国家として存続させることにし、以後、キリスト教王朝として繁栄することになります。王都ヒーラではアラブ詩を中心にアラブ文化が花開き、のちのアラブ文学にも大きな影響を与えています。

 

ガッサーン朝

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ガッザーン朝時代の遺構(シリア内戦前)

ローマ帝国と同盟関係を結んだアラブ人部族民らが築いたキリスト教王朝です。ローマ帝国を脅かすアラブ人部族民の北進に対する緩衝国家としての役割を果たしたガッサーン朝は、同様の理由からササン朝ペルシアの支援を受けているラフム朝と対立関係にあり、前者をローマ側が、後者をペルシア側が支援する構図が生まれました。ローマ帝国が東西に分裂すると、ササン朝ペルシアの侵攻という現実的な脅威に対抗するため、よりガッサーン朝が重要視されるようになります。ネストリウス派を信奉するラフム朝とは異なり、東ローマと同様に正教会を信奉するガッザーン朝は近しい存在でもありました。

 

空白地帯ヒジャーズ

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カアバ神殿内部の様子。6世紀にはここに多数の偶像があった

アラブ世界で様々な王朝が生まれ、また、アラビア半島でペルシアの影響が強まるなか、政治的空白地帯として残されたのが、アズド族が支配するオマーンと、紅海沿岸のヒジャーズ地方でした。後者のヒジャーズ地方は、ペルシアとローマの勢力争いに巻き込まれず、かつ海賊が出没する紅海を避けられるという地政学上のメリットから、交易における重要度が増してきた地域にあたります。こうして、6世紀以降に注目を浴びるようになったヒジャーズ地方では、ザムザムの泉という潤沢な水資源を持つメッカが最も重要な町として台頭することになります。そして、571年、新たな時代を切り開く人物ムハンマドがこの地で誕生したのでした。

 

6世紀は、大国間の覇権争いのなかで翻弄されるアラブ人が時代のプレイヤーへと移行する黎明期でした。アラブ世界の各所に大国の手が及ぶなか、今にも覇権争いの渦に飲み込まれそうだったヒジャーズ地方から、このような時代の変革者が現れることにある種の時代的な必然性を感じてしまうのは、きっと私だけではないでしょう。

 

 



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