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行ってみたところや世界の雑学など

【イラク旅行】バグダッド(バグダード)の観光名所を巡ってみた

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バグダッドタワー

イスラム国(ISIS)を壊滅させてから、治安が比較的安定を取り戻しつつあるように見えるイラククルディスタン地域では安定が続きビザなし渡航ができる状態ではありましたが、イラク本土は当時はとても個人旅行ができる状況ではありませんでした(※今と違いビザが全く下りなかった)。しかし、二度のイラク渡航を経てもバグダッド訪問を諦めきれなかった私は、イギリスの旅行会社がイラク訪問ツアーを催行していると知り、イギリスまで直接話を伺いに行って、安全性を確認したうえでツアーを申し込みました

 

ローマ教皇イラク訪問を契機に、イラク当局は2021年3月から日本パスポート保有者を含む一部に対してアライバルビザを解禁したことから、今ではどの空港でも到着時にビザが取れる状況となっています。しかし、古代遺跡など一部の観光施設ついては事前に許可を取っておく必要があるため、主要都市を外れて観光する場合、旅行会社でツアーを申し込むことをオススメします。

 

 

1. バグダッド到着!

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混雑するバグダッドの道路

私自身は、当時ドバイに滞在していたこともあり、現地LCCのフライドバイでドバイからイラクへと入国しました。首都バグダッドまではトルコのイスタンブール国際空港やUAEドバイ国際空港カタールのハマド国際空港など中東の主要なハブ空港から直行便が飛んでいるため、アクセスは簡単です。

 

実は、私のツアーでは2017年当時から既にアライバルビザの形式であったため、今と変わらずにバグダッド国際空港で到着ビザを申請しました。空港では米ドルでの支払いとなるため、事前に米ドルを用意しておいてください。

 

※今年イラクを訪れた友人によると、バスラ国際空港のビザカウンターは外国人で混雑していてオススメできないとのことでしたが、バグダッド国際空港では、2017年時点では30分もしないうちにビザが発給されました

 

2. バグダッド旧市街

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紙幣にもなっているムスタンシリーヤ学院

バグダッドが歴史上発展を始めたのは8世紀半ば、イスラーム帝国(アッバース朝)の時代のことでした。当時はイスラーム黄金期であったこともあり、マディーナ・アッ=サラーム(平安の都)と呼ばれたバグダッドは中国の都と並び立つ世界最大の都市として繁栄を謳歌しました。

 

13世紀以前の建物はモンゴル軍によりほぼ徹底的に破壊されたものの、今もチグリス川沿いにある旧市街には、ムスタンシリーヤ学院やアッバーシー宮殿(Abbasid Palace)、クラーファ・モスク(Khulafa Mosque、当時の遺構はミナレットのみ)など、モンゴル侵入以前の遺産を見ることができます。

 

ムスタンシリーヤ学院は1000イラク・ディナール紙幣にも描かれていて、屋上からは美しいチグリス川周辺の風景を眺めることができます。

 

他にも、モンゴル侵入以降(主にオスマン帝国期)につくられたモスクやハーン(隊商宿)、キシュラ(Qishla)などが保存されていて、こちらも必見です。

 

3. 他のエリア

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3B政策の舞台、バグダッド中央駅

バグダッドの主な見どころは旧市街ではありますが、それ以外のエリアにも見どころも点在しています。その中でも、チグリス川西岸にあるカージマイン・モスクシーア派イマームの廟所)やイラク国立博物館バグダッド中央駅、東岸にある王国時代の歴代君主の廟(Royal Mausoleum)などが有名です。

 

あとは、イラク共和国時代(特にフセイン政権)になってからつくられた数多くのモニュメントも必見です。特に、タハリール広場自由の碑(Freedom Monument)、市内東部の殉教者の碑(Martyr Monument)やグリーンゾーンの無名戦士の碑(Unknown Soldiers Monument)などは有名です。

 

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バグダッド中心部のカフェ

 

いかがだったでしょうか?

 

かつて黄金時代のイスラーム世界の中心地として栄えた首都バグダッドは、実際に行ってみると今も本当に魅力あふれる都市でした。2017年の訪問時は、治安の問題もあり、チェックポイントが点在していてピリピリした印象を受けましたが、治安さえ良くなればより魅力的な都市になると感じています。

 

ビザが空港で取れるようになったことで、コロナ禍以降は学生を中心に訪れる日本人が増えるとは思いますが、日本国外務省はバグダッド市内に退避勧告を出していることもあり、訪問はオススメできません。首都バグダッドの治安が改善されるまでは、ナジャフやバスラなどイラク南部、あるいはエルビルなどクルディスタン地域を訪れるに留めることも、選択肢として考えておいてください。

【サハリン旅行】まるで酒豪の島?サハリンでお酒を味わう

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サハリンビールが並ぶ売店(ネベリスクにて)

誰もが認める「飲酒大国」ロシア。ロシアと言えば、そのあまりにも寒い気候もあり、度数の濃いお酒が中心となってくるイメージが強いのではないでしょうか。

 

実は、サハリン州はロシア国内でも一人当たりのアルコール消費量がトップクラスの行政区分でもあり、そのこともあってお酒の製造も盛んです。ソ連時代からの工場も多く、社会主義クオリティのものから高品質のものまでさまざまですが、本格派のものもどんどん増えているので、当たり外れを繰り返して、自分に合う商品を見つけていってください。

 

1. ウォッカ

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ウォッカサハリン島民の楽しみの一つだ

2019年の統計で、ロシア国内最大の一人当たりウォッカ消費量が最大だったサハリン。ロシア人の比率が高く、北海道よりもさらに厳しい気候にあるサハリンでは、度数40度程度のウォッカが頻繁に飲まれます。

 

ロシア本土からの輸入も多いものの、州都ユジノサハリンスクを中心にウォッカの製造が非常に盛んで、「サハリンスカヤ(Сахалинская)」と「オホーツコエ・モーリェ(Охотское море)」の2つがかなり有名な銘柄となっています。

 

ウォッカについては、非正規品がかなり出回っていることもあり、上記の有名ブランドに限定しておいたほうが無難かもしれません。間違っても、密造酒に手を出して健康を害するようなことは絶対にしないでください

 

2. ビール

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隠れたビールの名産地サハリン

あまりにもウォッカのイメージが強いロシア。日本では意外と知られていないのが、ロシアはビール大国でもあるということ。2019年の統計では、ロシアのビール消費量は世界5位、一人当たりの消費量で見ても日本よりもはるかに多いんです…。ウォッカを飲みビールも飲む、それが寒冷地のロシア人の生活スタイルであり、サハリンの島民にもそれが当てはまります。

 

ウォッカなどの度数の高いスピリッツに慣れきったロシア人にとって、アルコール度数が5度程度のビールでは物足りるわけもなく、多くの場合1L~1.5Lのボトルでの販売となっています。日本人のように味わいながらジョッキで飲むというようよりはむしろボトルでがぶ飲みする、それがサハリンでよく見かける光景だと言ってしまっていいと思います。

 

そんなサハリンでのビール生産の拠点は、主に州都ユジノサハリンスクコロスとセヴェルナヤ・ズヴェズダや近郊のドリンスク(ドリンスキーやナギエフ)、ウグレゴルスク(ウグレゴルスキー)などで、コロスやドリンスキー、ウグレゴルスキーといったソ連時代の1940年代後半から1950年代に操業した歴史的な醸造所や、新参のセヴェルナヤ・ズヴェズダなどでは、有名銘柄「ジュグレフスコエ(Жигулевское)」が主力商品として販売されています。

 

ソ連崩壊後に操業したユジノサハリンスクのセヴェルナヤ・ズヴェズダからは人気銘柄の「コルサコフスコエ(Корсаковское)」や「オホツコエ(Охотское)」が、ドリンスクのナギエフからはクラフトビールクラフトヴォエ(Крафтовое)」などが販売されており、これらをあちこちの売店で見ることができます。

 

※アレクサンドロフスク・サハリンスキーやトマリ、マカロフなどの醸造所はソ連崩壊後に廃業してしまっています。経済的な苦境の時代が続いたとはいえ、何とも残念なことです。その一方で、世界的なビール会社として知られるハイネケンが極東ロシア向けに販売しているコメ入りビール「オコメ」もサハリンのあちこちで見られるので、日本贔屓の方が多い極東ロシアらしさを感じたい方は、こちらを試してみるのもいいかもしれません。

 

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サハリンビールは種類が多い(マカロフにて)

 

いかがだったでしょうか?

 

サハリンでは、島内での消費量の多いウォッカとビールの生産が盛んだということを今回お伝えできたと思います。しかし、サハリンでは慢性的な人口流出の問題があるため、今後も2021年現在の銘柄が全て存続できるかは未知数です。

 

しかし、コロナ禍のあとは日本人観光客向けのさらなるビザの緩和(電子ビザで16日間の滞在が可能となる)と日本サハリン間の直行便の再開が予定されていることから、今後は日本人観光客の大幅な増加も見込めるはずです。

 

ことビールに関してはボトル入りで鮮度がすぐ落ちるという問題もあり、今後も島内での消費がメインとはなると思いますが、ユジノサハリンスクの元国営醸造所コロスが開発した「林蔵ビール」など、日本人など外国人観光客にも親しまれやすい味の銘柄を増やしながら、これからも生き残りを図っていってほしいと思います。

【サハリン旅行】南北に長い島をどう移動する?

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サハリン北部の幹線道路(オハ周辺)

ロシア最大の島として知られるサハリン島。最北端のシュミット岬から最南端のクリリオン岬までは本州よりも長く、南北に非常に長いことで知られています

 

世界的に見ても、北海道に次ぐ面積の島であるサハリン島が、ここまで南北に細長いとなると、その移動がいかに大変か、お分かりいただけるかと思います。

 

最北の町オハはドイツ第二の都市ハンブルクベラルーシの首都ミンスクベラルーシ)と同じ緯度、サハリン南部の町コルサコフがスイス南部のローザンヌウクライナ南部のオデッサなどと同じ緯度であり、その緯度の差は軽く国を越えてしまうレベルです。

 

私自身、州都ユジノサハリンスクから縦横無尽に駆け巡ったサハリンの旅でしたが、幾度もオフロードや行き止まりなどに苦しみました。何とか怪我もなく無事にサハリンの旅を終わらせることができて、今となれば本当に良かったと心から思います。

 

今回は、私がサハリンで使ったレンタカーという最終手段ではなく、サハリンを公共交通機関のみでどう巡るか、そこに焦点をあてていきたいと思います。

 

1. 飛行機

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ユジノサハリンスク国際空港

最も快適に南北を移動する方法は間違いなく飛行機です。ユジノサハリンスク国際空港からは、北部のオハやノグリキ、そして西部のシャフチョルスクまでの国内線が就航しています。

 

オハやノグリキについては問題ないかと思いますが、シャフチョルスクについては気をつけていただきたい点が一つあります。実は、シャフチョルスク周辺での主な宿泊施設はシャフチョルスク(塔路)ではなくウグレゴルスク(恵須取)にあるのです…。なので、シャフチョルスク空港に到着したあとは必ずウグレゴルスク(恵須取)方面に向かってください!(※空港から約15km)

 

2. 鉄道

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ユジノサハリンスク鉄道駅

州都ユジノサハリンスクとノグリキの間を移動する場合、オススメできるのが鉄道の利用です。バスとは異なり、より広々とした空間を利用できるため、特にマカロフ以遠の長距離移動をする場合は、無難に電車を利用しましょう。例えば、ユジノサハリンスクとノグリキの間の鉄道の場合は、マカロフ、ポロナイスク、スミルヌイフ、ティモフスコエといった場所に鉄道駅が停車します。ティモフスコエとポロナイスクの間には見どころが多いものの、どこかの町を拠点として使う場合は、きちんと事前に宿泊施設を予約しておくことを推奨します。

 

ちなみに、トマリやチェーホフまでの移動を検討されている方は、西部の最大都市ホルムスクからバスで向かう方法もありますが、ホルムスクやユジノサハリンスクから鉄道で向かうこともできます。

 

3. バス

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市内観光にもバスは便利!

最後に紹介するのは、サハリンで最も発達している公共交通機関であるバスです。人口減少や老朽化などによってソ連崩壊後に鉄道網が廃止された場所が多いサハリンではかなり一般的な移動手段と言えます。鉄道のない町に行く場合はバスが唯一の移動手段となりますし、たとえば州都ユジノサハリンスクからコルサコフやホルムスク、ネベリスクなどに行く場合は、鉄道よりはバスのほうが楽かと思います。

 

もし長距離バスでの移動が苦手な方は、例えば現在の州都ユジノサハリンスクからかつての州都アレクサンドロフスク・サハリンスキーまで行くといった場合、鉄道駅のあるティモフスコエまで鉄道を利用してそこからバスで向かうことをオススメします。

 

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日本海側を走る線路(トマリ周辺)

いかがだったでしょうか?

 

サハリンといえば辺境の地で、移動が大変なイメージを持たれる方もいるかと思いますが、実は行ってみると全く難しくありません。世界的に見ても北海道に次ぐ面積の島の割に人口が北海道の10分の1以下と人口が非常に少ない島ではありますが、それでも交通の便は悪くないという印象を受けました。

 

様々な方の旅行記を見ていると、その大半が州都ユジノサハリンスク(豊原)からホルムスク(真岡)やコルサコフ(大泊)までといった短距離移動ばかりで、一番遠くてもポベジノ(古屯)北方の旧国境までの往復で終わっている印象があります。しかし、それはあくまで各旅行者の興味がそこに集中しがちだからであって、実際に時刻表などを確認すると、かなり色んな場所まで公共交通機関で簡単に行くことができます

 

とはいえ、日本人旅行者がよく行く旧国境の碑までのアクセスとなると、さすがにそれはポロナイスクのホテルで車をチャーターするのが無難ですが、そういった場合を除いた町での散策が中心の場合、それぞれの町までは公共交通機関で簡単にアクセスできるので、深く悩まずにバスターミナルや鉄道駅まで足を運んでみて下さい。

 

各地の見どころについては、本ブログの記事や私のYouTubeチャンネル、それから他の旅行者の情報などを参考にして頂けるとよいかと思います。

【サハリン旅行】かつての日本領、南樺太を巡ろう!

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日本時代の橋(チェーホフ/野田)

ロシア最大の島として知られるサハリン島。この島では、1905年から1945年にかけての約40年間にわたり、北緯50度線以南(南樺太)が日本により統治されていました。

 

そんな南樺太では、明治時代末期から大正時代にかけて、徐々にロシア名から日本名への書き換えが行われアイヌ語やニブフ語由来の地名などが混在するようになりました。

 

第二次世界大戦末期に、ヤルタ会談の際の極東密に従って、中立条約を破って日本に宣戦布告したソ連は、樺太の戦い(1945年8月11日~8月25日)の結果、サハリン全土での支配を確立し、その統治が後継国家のロシア連邦に受け継がれています。

 

日本統治時代から既に75年以上が経ち、今では日本の痕跡の多くが失われていますが、それでもなお、今もなお日本の痕跡を見ることができ、それらを見ようと多くの日本人旅行者が訪れています。

 

私は、サハリンを周遊するにあたり、こうした痕跡にも多く巡り合うことができました。正直、日本統治時代の主要な町はほとんど巡ったと思います。8日間という短い期間だったこともあり、見どころの少ない町は今回はスルーしてしまっていますが、それらの情報についても後ほど記載しますので、ぜひ併せてご確認ください。

 

戦後世代はこのあたりは詳しくないと思うので、まずは南樺太時代の行政区分(※1943年~1945年のもの)を、便宜上、現在の地名(※実際には領域が完全には一致しない)と併せて紹介します。

 

1. 樺太の行政区分

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真岡の桟橋を臨む(ホルムスク)

1907年になって、外地の南樺太の日本化を進めていくため、行政機関として樺太庁が設置されました。その後、幾度も行政区分は変更されましたが、ここでは便宜上、最後に変更された1943年以降のものを紹介します。

 

(1) 豊原支庁(南東部)

- 豊原市ユジノサハリンスク)※唯一の市

- 豊栄郡(最大の町:落合/ドリンスク

- 大泊郡(最大の町:大泊/コルサコフ

- 留多加郡(最大の町:留多加/アニワ

 

(2) 真岡支庁(南西部)

- 本斗郡(最大の町:本斗/ネベリスク

- 真岡郡(最大の町:真岡/ホルムスク

- 泊居郡(最大の町:泊居/トマリ

 

(3) 恵須取支庁(北西部)

- 恵須取郡(最大の町:恵須取/ウグレゴルスク

- 名好郡(最大の町:名好/レソゴルスコエ

 

(4) 敷香支庁(北東部)

- 敷香郡(最大の町:敷香/ポロナイスク

- 元泊郡(最大の町:知取/マカロフ

 

私自身は、南部のアニワ(留多加)や北西部のレソゴルスコエ(名好)は訪れていないため、これらの郡についての情報はそこまで詳しくありませんが、アニワはユジノサハリンスクからのアクセスも良いので、興味のある方はぜひ行ってみて下さい。

 

2. 現在の行政区分(※50度線以南)

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狛犬と郷土博物館(ポロナイスク)

(1) ユジノサハリンスク市(豊原)※唯一の独立市 

(2) ドリンスク管区(最大の町:ドリンスク/落合

(3) コルサコフ管区(最大の町:コルサコフ/大泊

(4) アニワ管区(最大の町:アニワ/留多加

(5) ネベリスク管区(最大の町:ネベリスク/本斗

(6) ホルムスク管区(最大の町:ホルムスク/真岡

(7) トマリ管区(最大の町:トマリ/泊居

(8) ウグレゴルスク管区(最大の町:ウグレゴルスク/恵須取

(9) ポロナイスク管区(最大の町:ポロナイスク/敷香

(10) マカロフ管区(最大の町:マカロフ/知取

(11) スミルヌイフ管区(最大の町:スミルヌイフ/気屯

 

こう見ると、今もなお、50度線以南では、日本統治時代の各行政区分の最大の町が現在もそのままの地位を維持していることがよくわかります。日本統治時代の繁栄が、ソ連により継承され、ロシア連邦になってからも維持されている、つまりそういう状況になっているわけです。

 

3. 各エリアの最大都市を訪ねよう!

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北海道拓殖銀行大泊支店跡(コルサコフ

日本の撤退後、50度線以南のサハリンには、日本国籍を喪失して引揚船に乗れず、残留を余儀なくされた朝鮮人在樺コリアン)など以外にも、新たにロシア人を中心に旧ソ連の国民が移住してきました。現在、南サハリンの主要な町ではロシア人が多数派となっており、どこに行っても町の雰囲気はロシア化している印象を受けます。

 

私自身、日本の痕跡が色濃く残っていると強く感じた町は数えるほどしかなく、ほとんどの町ではもう完全に異国そのものといった雰囲気でした。日本時代の痕跡は、州都ユジノサハリンスクなどを除けば、かつて王子製紙などの製紙会社が建てた工場跡が中心となっています。

 

少なくとも、南樺太の戦後の変化を味わいたい方については、とりあえずは、上記に挙げた、かつての樺太の行政区で最大の町を巡ることをオススメします。特に、ユジノサハリンスク(豊原)やポロナイスク(敷香)、ウグレゴルスク(恵須取)などでは、郷土博物館で日本統治時代の資料を見ることができます

 

4. ユジノサハリンスク(豊原)

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サハリン州郷土博物館(ユジノサハリンスク

かつてロシア人が築いたウラジミロフカ村を改称して名づけられた豊原。日本統治下の南樺太で唯一の市として繁栄し、今でも日本時代に碁盤の目のように整備された名残が見られます。ユジノサハリンスク(「南サハリン市」の意)と改称した今も、日本統治時代の痕跡は市内に残されており、特にサハリン州郷土博物館の建物はかつての樺太庁博物館のものをそのまま利用していて、保存状態は抜群です。サハリン州郷土博物館自体は、かつての州都アレクサンドロフスク・サハリンスキーにあった郷土博物館を移管したものではありますが、ソ連当局に接収された樺太庁博物館の収蔵品も併せて展示しています。

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鉄道歴史博物館(ユジノサハリンスク

また、サハリン南部ではソ連時代以降も日本統治時代の鉄道インフラがそのまま使われていたこともあり、レーニン広場前のユジノサハリンスク鉄道駅の右側にある鉄道歴史博物館では、日本から寄贈された車両や当時の日本統治時代の鉄道の歴史などについての展示を見学することができます。

 

5. 各地の製紙工場跡

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ポロナイスク(敷香)の製紙工場跡

南樺太の発展と切っても切れない関係にあるのは、この地で栄えた製紙産業です。手付かずの森林が残されていたここ南樺太には多くの製紙工場が建設され、その一帯が大きな町として繁栄しました。ドリンスク(落合)、コルサコフ(大泊)、ホルムスク(真岡)、トマリ(泊居)、ウグレゴルスク(恵須取)、ポロナイスク(敷香)、チェーホフ(野田)などでは、製紙工業の跡が廃墟として残っています

 

6. 各地の神社跡

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トマリ(泊居)に残された鳥居

日本統治時代には、日本人の移住に伴い、神社が数多く建設されました。その大半はソ連時代以降に荒廃してしまいましたが、今もなお、鳥居が残っている場所が複数個所あります。ヴズモーリエ(白浦)にあった東白浦神社、トマリ(泊居)にあった泊居神社、ウグレゴルスク(恵須取)にあった恵須取神社では、今も鳥居が当時のまま残されています。

 

他にも、オゼルスコエ(長浜)にあった長浜神社の忠魂碑や、ユジノサハリンスク(豊原神社)にあった樺太神社の参道(現在は栄光広場として整備)など、各地に神社の痕跡が一部残っているので、興味のある方は、こうした神社の史跡を巡ってみるのもアリかもしれません。

 

7. 樺太遠征軍上陸記念碑

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樺太遠征軍上陸記念碑(プリゴロドノエ)

日露戦争終戦期にあたる1905年7月7日、日本軍はサハリン南部の女麗(プリゴロドノエ)に上陸し、その後、敗走するロシア軍を追撃して50度線以北のオノールへと到達、そこで停戦に合意し、そのまま州都のアレクサンドロフスク・サハリンスキーを制圧、全島を占領するに至りました。この樺太の戦いの勝利を記念し、上陸地点に記念碑が建てられました。

 

この上陸記念碑は、のちに倒れて今では台座と石碑に分離した状態となっています。倒れた碑には「遠征軍上陸記念碑」の文字を今もくっきりとみることができます。

 

8. 真岡郵便電信局跡地

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真岡郵便電信局の跡地(ホルムスク)

第二次世界大戦終結期の1945年8月20日ポツダム宣言受諾~降伏文書調印のあいだの期間にあたる)、ソ連は豊原(現ユジノサハリンスク)制圧に向けた足掛かりとして真岡(現ホルムスク)に上陸、この地を制圧しました。その戦闘のさなか、この町の郵便電信局で電話交換手として勤めていた女性たちが集団自決をするという事件(真岡郵便電信局事件)が発生、9名の尊い命が失われることとなりました。

 

- 可香谷シゲ(23歳)
- 高石ミキ(24歳)
- 渡辺照(17歳)
- 松崎みどり(17歳)
- 沢田きみ(18歳)
- 吉田八重子(21歳)
- 高城淑子(19歳)
- 伊藤千枝(22歳)
- 志賀晴代(22歳)

 

ソ連軍の無差別な銃撃が町を襲うなか、ソ連軍に捕まったら何をされるかわからないという恐怖のなか、女性たちは自決を決意、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」と通信を閉じ、次々と服毒して自ら命を絶っていったのでした。

 

恵須取(現ウグレゴルスク)郊外の大平炭鉱での集団自決事件に続いて起きた悲惨な事件は、今の戦後世代の間では風化も進んでいますが、稚内公園には今も「九人の乙女の像(殉職九人の乙女の碑)」が慰霊碑として残されています。

 

現代になっても、ここ真岡郵便電信局の跡地には、ロシア郵便と郵便銀行(Почта России / Почта банк)が入っていることが確認できます。建物の面影はなくても、今も真岡郵便電信局はロシア郵便として形を変えて息づいています。

 

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かつての日ソの激戦地、熊笹峠(ホルムスク峠)

いかがだったでしょうか?

 

日本とロシア(ソ連)がかつて陸地で接していた南樺太には、1905年の樺太上陸から1945年の撤退に至るまでの日本人の痕跡が残っていることをお伝えできたかと思います。

 

今回ご紹介したもの以外にも、日本時代の橋梁や鉄道の跡など、サハリンにはまだまだ数多くの日本時代の痕跡が残されています。本ブログの情報が、皆様それぞれのサハリンの旅を楽しむ一助となりますことを切に願っております。

【サハリン旅行】北サハリン(50度線以北)の見どころを紹介します!

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最北端の町にあったモニュメント(オハ)

 

ロシア最大の島として知られるサハリン島日露戦争末期の樺太占領、シベリア出兵時の保障占領を除き、1875年以来ずっとロシア(ソ連)の施政下にあった50度線以北のサハリンは、日本統治時代を40年間も経験した南部とはまた違った風景が広がっています。

 

ドゥエ(アレクサンドロフスク・サハリンスキーの南にある町)とガスチェッロ(ポロナイスクの南にある町)を結ぶ分類境界線として知られるシュミット線の北側には、概ね日本と異なる植生が広がっていることから、より異国を感じさせる雰囲気となっています。

 

州都ユジノサハリンスクから3泊4日の強行軍で臨んだ北サハリンの旅。しかし、それでも、最北端の町として知られるオハやノグリキ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーなど、北サハリンのほとんどの主要な町を訪れることができました。

 

そんな北サハリンで、ここは良かった、再訪したい!と思えた場所を、ここでは訪問地別に一気に紹介していこうと思います!

 

1. オハ

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震災犠牲者を追悼する教会(オハ)

まずご紹介するのは、サハリン最北端の町オハです。

オハは、もともと先住民族エヴェンキの言葉に由来する名前で、ロシア統治下のもと油田開発の拠点として発展を遂げてきました。オハは、北サハリン最大の町、サハリン全体で見ても4番目に大きい町で、見どころが詰まっています。

 

オハ市内でまず紹介したいのは、市内のランドマークとして知られるロシア正教会ラドネジの聖セルギイ教会(Церковь Сергия Радонежского)です。この教会は、オハ管区の町ネフチェゴルスクで1995年に発生した地震による犠牲者を追悼するために建てられたものです。

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サハリン最北の町オハを散策

教会から南に歩くと見えてくる文化宮殿(Районный Дворец культуры)の敷地内にはレーニン像も建てられています。規模としては州都ユジノサハリンスクのものとは比になりませんが、サハリンの最北の地のレーニン、これは写真に収めておいて損はないと思います。

 

町のなかには、このレーニン像以外にもソ連時代のモニュメントが数多く残されているので、それらを訪ねて散策するのもまた面白いかもしれません。また、市内には、ロシア帝政期の油井「ゾトワの塔(Вышка Зотова)」も残されており必見です。

 

※油井「ゾトワの塔」の位置情報

 

特に何があるというわけでもありませんが、オハのバスターミナルからは、かつて先住民族の定住化のためにつくられたサハリン最北の集落ネクラソフカまでのバスも発着していますので、興味がある方はぜひ足を運んでみて下さい。

2. ネフチェゴルスク

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震災の慰霊碑(ネフチェゴルスク)

次に紹介するのは、オハ管区にあるネフチェゴルスクです。ネフチェゴルスクは、かつては約3000人の住人が暮らしていた北サハリンでは有数の町でした。しかし、直下型地震により町は壊滅、約2000人の尊い命が犠牲となりました。

 

現在、ほとんどの建物が撤去されており、かつての町の中心には震災による犠牲者のための慰霊碑が建設されました。各アパートの跡地には、その建物の番号を記した碑が建てられているほか、町の中心部から離れた場所では、低層階の建物や電線などを中心に地震当時の痕跡がそのままの状態で放置されています。

 

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今も残る震災の爪痕(ネフチェゴルスク)

北サハリンの主要な町、そして州都ユジノサハリンスクには、ネフチェゴルスク地震の慰霊碑や慰霊のための教会が建てられていることからも、この震災がサハリンの人々に与えた衝撃がいかに大きかったかを窺い知ることができます。

 

3. ノグリキ

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震災犠牲者を追悼する教会(ノグリキ)

ノグリキは、北サハリン有数の大河トウィミ川の河口に開けたサハリンで7番目、北サハリンで2番目に大きな町です。町の名前は、かつてこの地にいたニヴフの部族から付けられたもので、今でもニヴフの人々が少なからず暮らしています。

 

私は(往復ともに)町に着いたときにはすでに閉館時間を過ぎていたため訪問は叶いませんでしたが、町の東部には、先住民族ニヴフの詳細な展示などを行っているノグリキ郷土博物館(Краеведческий Музей)が開館しているので、お時間のある方はぜひ訪れて頂きたい場所です。

 

ノグリキ市内の中心部には、こちらもオハと同様にネフチェゴルスク地震の犠牲者を追悼する目的で建てられた聖堂(Церковь Введения во храм Пресвятой Богородицы)があるので、こちらもぜひ見学してみてください。

 

4. アレクサンドロフスク・サハリンスキー

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A.P.チェーホフ歴史文学博物館(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)

ロシア帝政期に、サハリンの拠点として建設された町で、かつてサハリンを訪れたチェーホフが最初に上陸した地としても知られています。今でも北サハリンで3番目に大きな町で、サハリン全体で見ても10番目に大きな町としてその存在感を保っています。

 

町のなかで絶対に訪れてほしいのは、チェーホフが身を寄せていた元囚人ランコバルドの邸宅を改装した博物館「A.P.チェーホフ歴史文学博物館」です。ここには、ルポルタージュサハリン島』の執筆のためにここに滞在したチェーホフの資料の展示などがなされており、必見です。

 

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再建された聖堂(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)

そのほかにも、1891~1893年にかけて建設された聖堂(ソ連時代に解体、ロシア連邦になって再建)を筆頭に、帝政期の歴史的な建物が多くみられることから、ソ連色の強い他のサハリンの町とはまた違った散策を楽しめます。

 

5. ティモフスコエ

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中央広場のレーニン像(ティモフスコエ)

かつて流刑囚たちによって築かれた町で、今では北サハリンと南サハリンの主要な町を結ぶ交通の要衝となり、北サハリンで4番目に大きな町として発展を遂げました。

 

市内には銀色のレーニンがそびえ立つ中央広場があり、そのすぐそばには、この町の辿った歴史を紹介するティモフスコエ郷土博物館(Тымовский Краеведческий Музей)があります。そこまで規模は大きくないものの、この町を訪れた際はぜひ訪れてほしい博物館です。

 

6. オノール

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広場に建てられた記念碑(オノール)

北緯50度線のすぐ北にある集落オノールは、人口1000人ほどと小規模ではあるものの、1892年に建設されたサハリンのなかでも比較的古い歴史的な集落です。ここは、かつて日露戦争末期の樺太の戦い(1905年7月7日~7月31日)において、南サハリンから敗走したロシア軍との間で7月16日に停戦が実現した場所として知られています。

 

※その後、日本軍は当時のサハリン州の州都であったアレクサンドロフスク・サハリンスキーに7月24日になって上陸、ロシア側は町を放棄して撤退し、7月31日になって日本軍に降伏しました。

 

今のオノールにおいて日露戦争当時の痕跡を見ることはできませんが、代わりに、中央広場には第二次世界大戦末期の樺太の戦いでの戦死者の慰霊碑が建てられています。

 

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5月とは思えない風景(オハの南50km地点)

いかがだったでしょうか?

 

サハリン北部は寒冷地であることもあり、町が少ない印象を持たれがちなエリアですが、意外と北部にもそれなりの規模の町があることが本記事でお分かりいただけたと思います。

 

帝政ロシアを感じさせるかつての州都アレクサンドロフスク・サハリンスキーをはじめとする旧国境付近の町を除けば、大半の町が北サハリンの石油資源を開発するために発展してきたという事情もあり、歴史的な見どころはかなり少ない印象を受けます。しかし、北サハリンの魅力は、町だけでなくその美しい自然にこそあります。タイガの森と、その行く先々で待ち受けるダートの道は、手つかずの自然が残る北サハリンならではの原風景であり、旅人の冒険心をくすぐってやみません。

 

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ネフチェゴルスク周辺のダート道

北サハリンの魅力については、私のYouTubeチャンネルでも2回に分けてご紹介していますので、ぜひそちらも併せてご覧ください。

 

サハリンを訪れる人の多くが、ボーダーツーリズムや日本統治時代の痕跡巡りを目的としていることもあり、北サハリンに関する日本人の動画はほとんどないのが現状です。

 

私は主に4WDでドライブを楽しみながら北サハリンを巡っていましたが、コロナ禍のあとに発給されることになっている電子査証(Eビザ)で16日間滞在できますので、サハリン滞在の際は、本ブログの内容や動画の内容を踏まえ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーなど北サハリンも併せて訪れて頂けますと幸いです。

【サハリン旅行】かつての旧国境を訪ねて

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レオニドヴォにある記念碑(後述)

ロシア最大の島として知られるサハリン島。かつて先住民族の島だったこの地は、かつての雑居の時代を経て、1875年からロシア領、1905~1945年にかけては北緯50度線以南が日本領として日本が統治していた歴史があります。

 

ポーツマス条約(1905年)でロシアから獲得した南樺太は外地という扱いとなり(1943年に内地へ編入)、1907年には樺太庁が設置され、豊富な森林資源や海産物、石炭などの本土への供給源として、この島が利用されることとなりました。その結果、内地から多くの労働者とその家族がこの辺境の地へと赴き、終戦間際には約40万人もの人々がこの北方の地に暮らしていました。

 

日本は日露戦争の際のみならず、シベリア出兵の際にも全島を制圧したため、必ずしも40年間ずっと北緯50度線が両国の境界であり続けたわけではありませんが、国際法上はここが国境としてずっと機能してきました。

 

サハリン自体が人口の少ない辺境地ということもあり、両国ともサハリンの国境地帯にほとんど兵力を割いていませんでしたが、終戦期には北緯50度線付近が「樺太の戦い」(1945年8月11日~8月25日)の最初の戦場となり、激戦が繰り広げられることとなりました。

 

本記事では、そんなサハリンの旧国境周辺の見どころの情報を、50度線から南へと順にご紹介します。この地で終戦期に日ソ両陣営が辿ったストーリーを、ぜひ現地で肌で触れてみて下さい。

 

1. 旧国境の碑(北緯50度線)

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旧国境の碑

まずご紹介するのは、かつての旧国境(日本側)に建てられたソ連の碑です。

日本が築いた国境標石への山道と幹線道路が交わる地点に建てられたこの碑は、日露戦争で奪われた南サハリンを取り戻したというストーリーのもと建てられたもので、ソ連側の、日本に対する当時の心情が色濃く見受けられる碑となっています。

 

2. 天第三號(北緯50度線)

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天第三號

その旧国境の碑から奥に続く山道を進むと、日本統治時代につくられた国境標石「天第三號」の跡地にたどり着きます。この標石自体は現在、ユジノサハリンスクにあるサハリン州郷土博物館で展示されており、現地には台座部分しか残っていません。しかし、この地が40年ものあいだ日本の施政下にあった痕跡を生で見ることができます。

 

3. 半田陣地(旧国境付近)

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半田陣地

旧国境の碑から幹線道路を南下すると、まずはロチノ(半田)の右手にトーチカの跡が見えます。日本が築いたこのトーチカ群は、樺太の戦いの初期に戦場となった場所です。

 

旧国境から中央軍道を下った最前線にあったここ半田を守っていた歩兵と国境警備隊の約100名は、8月11日の午前5時頃から翌日にかけての戦闘で玉砕、その際のソ連の猛攻の跡は半田のトーチカ群に今も深く刻み込まれています。

 

4. 日ソ平和友好の碑

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日ソ平和友好の碑

樺太の戦いの最初の激戦地となった半田(ロチノ)と古屯(ポベジノ)の間の幹線道路上に建てられた記念碑です。大戦時の対立を乗り越え、新しい日ソ平和友好の時代を迎えようとの思いを込めて建てられたものです。

 

※背景

ソ連は、1945年4月のヤルタ会談での極東密約で、「ドイツへの戦勝から2か月から3か月後」に実施されることとなった対日参戦の見返りに「サハリン南部と周辺島嶼部の返還」「千島列島の引き渡し」を米英から約束されていたソ連は、独ソ戦の勝利から3か月後にあたる8月9日、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告しました。ソ連を通じた日米仲介を唯一の頼みとしていた日本は、ここで無条件降伏か一億総玉砕かという究極の二択を迫られることになり、二度の原爆投下と相まって、昭和天皇のご聖断により無条件降伏する運びとなりました。

戦後に東西冷戦に突入すると、日ソ間の領土返還交渉が米軍基地問題へと飛び火し、アメリカから二島返還ではなく四島返還を要求するよう要請された日本と、米軍による北方領土の軍事基地化を恐れたソ連との間では、領土確定も平和条約締結もできぬまま、ただただ時が流れる状態に陥ってしまいました。

こうした状況のなか、日ソの平和友好条約締結への願いを込め、かつて激戦地となったサハリンのポベジノ(古屯)北方に、両国の友好を願う碑が建てられました。

 

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幹線道路上のトーチカ跡

この日ソ平和友好の碑から幹線道路の反対側を見ると、かつての戦闘で破壊された日本軍のトーチカの跡が今も残されています。

 

5. ソ連戦没者墓地(ポベジノ)

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ソ連戦没者墓地

ポベジノの町の北郊外には、ソ連時代に建設された戦没者慰霊碑と共同墓地があります。ここポベジノ(古屯)では、歩兵第125連隊の第一大隊が侵攻してきたソ連軍と交戦、激戦が繰り広げられました。この地で日本軍の歩兵第125連隊の第一大隊がほぼ壊滅し、8月18日になってソ連軍と停戦しました。

 

この激戦地で亡くなったソ連兵たちを追悼して建てられたこの慰霊碑の前には、戦死者の名前が刻まれた墓碑がずらりと並んでいます。

 

6. 樺太・千島戦没者慰霊碑(ポベジノ)

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樺太・千島戦没者慰霊碑

大戦末期の樺太(南サハリン)と千島列島(クリル列島)での戦闘によって犠牲となった人々を追悼するため、ソ連戦没者墓地の奥に日本によって建てられたものです。樺太の戦いや占守島の戦いなど、日本とソ連の間では幾多の戦いが繰り広げられ、多くの人命が失われました。

 

日本軍とソ連軍の双方の慰霊碑が隣接する数少ない場所で、日ソ双方にとって重要な戦いであったことがここからも窺い知ることができます。

 

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古屯兵舎の弾薬庫

 

ちなみに、戦没者慰霊碑からさらに奥の道に入ると、弾薬庫なども見ることができますので、こちらも併せて見学してみることをオススメします。

 

7. 南サハリン解放記念碑(ポベジノ)

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南サハリン解放記念碑

ポベジノの町内に建てられた記念碑です。この「ポベジノ」自体が対日戦の勝利を記念してつけられた名前で、この地での激戦を制したことにどれだけソ連側が思い入れを持っていたかを強く感じられます。

 

スターリンが対日参戦の条件として真っ先に提示したのが「南サハリンの返還」だったことからも、日本に「奪われた」南半分の領土を奪還したいという思いが強くあったこと、そしてそのソ連側のこの地への思い入れがここ「解放記念碑」に表れていることなどを踏まえると、サハリン訪問時には絶対に訪れておきたい場所のひとつです。

 

8. ポベジノ駅(ポベジノ)

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かつての古屯駅(現ポベジノ駅)

日ソの緊張の高まりを受け、1943年に軍用列車の停車駅としてつくられた古屯駅に由来する鉄道駅です。開業当時は日本最北端の鉄道駅であり、樺太の戦いにおいては、その戦略的な重要性もあり、この駅周辺でも日ソ両軍が交戦しました(8月15日)。

 

今でも南北サハリンを結ぶ鉄道駅として機能しており、南部のユジノサハリンスクやポロナイスクと北部のノグリキを結ぶ鉄道の停車駅となっています。

 

9. レオニド・スミルヌイフ像(スミルヌイフ)

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レオニド・スミルヌイフ像

日本統治時代には気屯と呼ばれていたこの地には、1943年から1945年にかけて、日本軍の歩兵第125連隊が駐屯していました。樺太の戦いの結果、ソ連が南サハリンを獲得したのち、古屯(現ポベジノ)での戦いで戦死した大隊長レオニド・スミルヌイフに因んでスミルヌイフと改称されました。町のなかには、彼の功績を記念して銅像が建てられています。

 

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戦車モニュメント

ちなみに、市街にある公園には、他にも対日戦で使われたと思われる戦車のモニュメントもあり、こちらも町のランドマークとして親しまれています。

 

10. アントン・ブユクリ像(ブユクリ)

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アントン・ブユクリ像

日本統治時代には保恵と呼ばれていたこの地は、樺太の戦いの結果、ソ連が南サハリンを獲得したのち、古屯(現ポベジノ)での戦いで戦死した上級軍曹のアントン・ブユクリに因んでブユクリと改称されました。村の庁舎の前には、彼の功績を記念して銅像が建てられています。

 

11. 戦没者記念碑(レオニドヴォ)

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戦没者記念碑

日本統治時代に上敷香と呼ばれたこの地には、樺太の戦い当時、中央軍道の日本軍主力部隊が駐屯していました。8月17日に上敷香からの住民退避が完了すると、日本軍による放火やソ連軍機による爆撃によって町は消滅、のちにソ連当局が、対日戦の英雄レオニド・スミルヌイフに因んだ集落レオニドヴォとして再興しました。

 

古屯(ポベジノ)での戦いで戦死した大隊長レオニド・スミルヌイフと上級軍曹アントン・ブユクリは、ソ連当局によってつくられた戦没者記念碑の敷地内で今も安らかに眠っています(正面左がスミルヌイフ、右がブユクリ)。

 

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レオニドヴォの記念碑に備えられた花束

いかがだったでしょうか。

旧国境からポロナイスク(敷香)の間に位置するかつての中央軍道の一帯には、多くの戦跡が残されています。日本史であまり取り上げられない樺太の戦いについて考える良い機会になると思いますので、サハリンをご旅行される際は、ぜひポロナイスクから日帰りなどで訪れてみて下さい!

 

youtu.be

こちらの動画で旧国境付近の見どころを映像で紹介しています。

ぜひ併せてチェックして頂けると幸いです。

【戦後世代に伝えたい】樺太に残った日本人に会いに行きました。

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サハリン日本人会の白畑正義会長(当時)

ロシア最大の島として知られるサハリン島先住民族の島だったこの地に日本人とロシア人が住み着き、その後、雑居の期間を経て、1875年にロシア領、1905~1945年にかけては北緯50度線以南が日本領、そして1945年8月から全島をソ連が支配した、そんな歴史的経緯を辿った島です。

 

そんなサハリンには、実は、戦後に引揚船に乗らずに残った日本人が今も少数ながら暮らしています。戦後史に葬り去られた在樺日本人の歴史。実際に残った日本人の話を直接聞くため、私はアポイントを日本で済ませ、サハリン州の州都ユジノサハリンスク にあるサハリン日本人会を訪れることにしました。

 

日本統治時代の南樺太では、製紙工場や炭鉱などができ、森林や炭鉱での労働などのため、内地から多くの日本人が移住しました。その結果、1906年にはわずか1万2000人ほどだった日本人の人口は、1933年には30万人を超えるまでに膨れ上がりました。

 

最も近い海外、ユジノサハリンスク

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コルサコフ上空を通過

世界的に見ると秘境という扱いのサハリンですが、隣接する日本からはなんと直行便も飛んでいます。2019年5月の訪問時には、オーロラ(サハリン航空ウラジオストク航空が合併してできた航空会社)が成田(東京)と新千歳(札幌)に就航しており、非常にアクセスがしやすい状況でした。ロシアの電子査証を利用しての8日間の訪問で、その2日目に白畑さんとのアポイントメントを入れて訪問することにしました。

 

成田国際空港からユジノサハリンスクの飛行時間は約2時間。ウラジオストクソウル、釜山まで約2時間半ということを考えると、東京から最も近い海外ということになります。沖縄の那覇空港までも約3時間なので、そのアクセスの良さが実感いただけると思います。

 

サハリンに到着!

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ユジノサハリンスク国際空港

宗谷岬 を眼下に見下ろして約10分。サハリン最南端のクリリオン岬が見えたと思えば、その時点で既に機体はかなり高度を下げていました。そこからコルサコフを右手に見ながら機体はさらに降下を続け、市内南部にあるユジノサハリンスク国際空港へと着陸しました。

 

日本とサハリン州 の時差は+2時間。日本ではまだ夕方の午後7時だとしても、サハリンでは既に午後9時となっています。入国審査を済ませ、市内へとタクシーで出ると、そのときには既に午後10時になろうとしていました。

 

その日はナイトクラブやバーなどを除けば店は既に閉まっており、特にすることもないのでそのままホテルにチェックイン。サハリン到着を日本人会に報告し、翌日の訪問に備えて就寝することにしました。

 

サハリン日本人会へ訪問!

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サハリン日本人会の白畑会長(当時)と歓談

ユジノサハリンスク滞在2日目、市内でレンタカーを借り、車で日本人会に向かいました。そこで出迎えて下さったのが、当時のサハリン日本人会の会長でいらっしゃった白畑正義さんでした。白畑さんは、1939年にフボストボ(当時の内砂/ないしゃ)で生まれ、樺太 の戦い(1945年8月)のあともサハリンに留まった在樺日本人のうちの1人です。

 

白畑さんは終戦 時に幼かったこともあり、その記憶のほとんどがソ連 時代以降のもので、日本時代のことは覚えていらっしゃらなかったため、生い立ちやソ連時代のお話を中心にお話を伺いました。

 

そのお話は動画内で紹介していますので、ぜひそちらをご覧ください。

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【動画】白畑正義さんとのインタビュー動画

 

今も各地で暮らす日本人たち

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敷香(ポロナイスク)で生まれた横綱大鵬の像

1905年から1945年にかけての日本統治時代、当時の政府が辺境開拓のために南樺太 への移住政策を促進したこともあり、1906年に1万2000人ほどだった日本人の人口は、1933年には30万人を超えるまでに膨れ上がりました。そして、その多くが戦後に日本へと引揚船で送還されたのです。

 

白畑さんを含め、少なからぬ日本人(特に在樺コリアンと結婚した日本人女性)が、日本への帰還を諦めてそのままサハリンに残留し、のちにソ連政府から国籍(ソ連崩壊後はロシア国籍)を付与されて、ロシア人などソ連構成国の国民と同じ扱いを受けて暮らしたのでした。

 

南サハリンの主要な町であるユジノサハリンスク豊原)、ポロナイスク(敷香)、ウグレゴルスク(恵須取)といった場所では、今も残留日本人やその子孫が暮らしています。南部では、ファミリーネームに日本名を持つ方と出くわすことがあります。その多くが、日本統治時代に土人教育所」オタスの杜で教育を受け、日本名を付与されていた少数民族か、戦後も日本に帰還せずに残った在樺日本人のどちらかに関係しています。

 

永住帰国という選択

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白畑さんが定年まで過ごされた町トマリ(泊居)

サハリン日本人会の会員の多くが、高齢による高度医療の必要性などを理由に慣れない日本へと移住した1990年代~2010年代。白畑さんは、2019年5月当時はサハリンで骨を埋める気持ちでいたことが、私のインタビューからも伺えます。

 

人生の大半を過ごしたトマリから、定年になって州都ユジノサハリンスクに出てきて、そしてその後に日本人会の会長まで務められた白畑さんにとって、永住帰国というかたちで、最愛の妻が眠る地ユジノサハリンスクを離れ、人生で一度も過ごしたことのない日本本土に永住する決意をされたことは、かなりの苦渋の選択であったように思います。

 

戦後日本の家庭に生まれた私には、愛する故郷、そして愛するご家族の多くと離れる選択をされた白畑さんの、そのお気持ちを推し量ることなど到底できませんが、それでも、「愛する地サハリンで骨を埋めるべきか、高度な治療で長く生きるために日本に行くべきか」という究極の選択を、在樺日本人の方々が今も迫られているということは、戦後世代の一員として、我々はきちんと知っておく必要があるように思います。

 

質問やご意見はコメント欄までお寄せください。私のブログは旅ブログですので、サハリン(樺太)にまつわる政治的なご発言についてはお控えいただきたく、よろしくお願い申し上げます。