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【サハリン旅行】かつての日本領、南樺太を巡ろう!

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日本時代の橋(チェーホフ/野田)

ロシア最大の島として知られるサハリン島。この島では、1905年から1945年にかけての約40年間にわたり、北緯50度線以南(南樺太)が日本により統治されていました。

 

そんな南樺太では、明治時代末期から大正時代にかけて、徐々にロシア名から日本名への書き換えが行われアイヌ語やニブフ語由来の地名などが混在するようになりました。

 

第二次世界大戦末期に、ヤルタ会談の際の極東密に従って、中立条約を破って日本に宣戦布告したソ連は、樺太の戦い(1945年8月11日~8月25日)の結果、サハリン全土での支配を確立し、その統治が後継国家のロシア連邦に受け継がれています。

 

日本統治時代から既に75年以上が経ち、今では日本の痕跡の多くが失われていますが、それでもなお、今もなお日本の痕跡を見ることができ、それらを見ようと多くの日本人旅行者が訪れています。

 

私は、サハリンを周遊するにあたり、こうした痕跡にも多く巡り合うことができました。正直、日本統治時代の主要な町はほとんど巡ったと思います。8日間という短い期間だったこともあり、見どころの少ない町は今回はスルーしてしまっていますが、それらの情報についても後ほど記載しますので、ぜひ併せてご確認ください。

 

戦後世代はこのあたりは詳しくないと思うので、まずは南樺太時代の行政区分(※1943年~1945年のもの)を、便宜上、現在の地名(※実際には領域が完全には一致しない)と併せて紹介します。

 

1. 樺太の行政区分

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真岡の桟橋を臨む(ホルムスク)

1907年になって、外地の南樺太の日本化を進めていくため、行政機関として樺太庁が設置されました。その後、幾度も行政区分は変更されましたが、ここでは便宜上、最後に変更された1943年以降のものを紹介します。

 

(1) 豊原支庁(南東部)

- 豊原市ユジノサハリンスク)※唯一の市

- 豊栄郡(最大の町:落合/ドリンスク

- 大泊郡(最大の町:大泊/コルサコフ

- 留多加郡(最大の町:留多加/アニワ

 

(2) 真岡支庁(南西部)

- 本斗郡(最大の町:本斗/ネベリスク

- 真岡郡(最大の町:真岡/ホルムスク

- 泊居郡(最大の町:泊居/トマリ

 

(3) 恵須取支庁(北西部)

- 恵須取郡(最大の町:恵須取/ウグレゴルスク

- 名好郡(最大の町:名好/レソゴルスコエ

 

(4) 敷香支庁(北東部)

- 敷香郡(最大の町:敷香/ポロナイスク

- 元泊郡(最大の町:知取/マカロフ

 

私自身は、南部のアニワ(留多加)や北西部のレソゴルスコエ(名好)は訪れていないため、これらの郡についての情報はそこまで詳しくありませんが、アニワはユジノサハリンスクからのアクセスも良いので、興味のある方はぜひ行ってみて下さい。

 

2. 現在の行政区分(※50度線以南)

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狛犬と郷土博物館(ポロナイスク)

(1) ユジノサハリンスク市(豊原)※唯一の独立市 

(2) ドリンスク管区(最大の町:ドリンスク/落合

(3) コルサコフ管区(最大の町:コルサコフ/大泊

(4) アニワ管区(最大の町:アニワ/留多加

(5) ネベリスク管区(最大の町:ネベリスク/本斗

(6) ホルムスク管区(最大の町:ホルムスク/真岡

(7) トマリ管区(最大の町:トマリ/泊居

(8) ウグレゴルスク管区(最大の町:ウグレゴルスク/恵須取

(9) ポロナイスク管区(最大の町:ポロナイスク/敷香

(10) マカロフ管区(最大の町:マカロフ/知取

(11) スミルヌイフ管区(最大の町:スミルヌイフ/気屯

 

こう見ると、今もなお、50度線以南では、日本統治時代の各行政区分の最大の町が現在もそのままの地位を維持していることがよくわかります。日本統治時代の繁栄が、ソ連により継承され、ロシア連邦になってからも維持されている、つまりそういう状況になっているわけです。

 

3. 各エリアの最大都市を訪ねよう!

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北海道拓殖銀行大泊支店跡(コルサコフ

日本の撤退後、50度線以南のサハリンには、日本国籍を喪失して引揚船に乗れず、残留を余儀なくされた朝鮮人在樺コリアン)など以外にも、新たにロシア人を中心に旧ソ連の国民が移住してきました。現在、南サハリンの主要な町ではロシア人が多数派となっており、どこに行っても町の雰囲気はロシア化している印象を受けます。

 

私自身、日本の痕跡が色濃く残っていると強く感じた町は数えるほどしかなく、ほとんどの町ではもう完全に異国そのものといった雰囲気でした。日本時代の痕跡は、州都ユジノサハリンスクなどを除けば、かつて王子製紙などの製紙会社が建てた工場跡が中心となっています。

 

少なくとも、南樺太の戦後の変化を味わいたい方については、とりあえずは、上記に挙げた、かつての樺太の行政区で最大の町を巡ることをオススメします。特に、ユジノサハリンスク(豊原)やポロナイスク(敷香)、ウグレゴルスク(恵須取)などでは、郷土博物館で日本統治時代の資料を見ることができます

 

4. ユジノサハリンスク(豊原)

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サハリン州郷土博物館(ユジノサハリンスク

かつてロシア人が築いたウラジミロフカ村を改称して名づけられた豊原。日本統治下の南樺太で唯一の市として繁栄し、今でも日本時代に碁盤の目のように整備された名残が見られます。ユジノサハリンスク(「南サハリン市」の意)と改称した今も、日本統治時代の痕跡は市内に残されており、特にサハリン州郷土博物館の建物はかつての樺太庁博物館のものをそのまま利用していて、保存状態は抜群です。サハリン州郷土博物館自体は、かつての州都アレクサンドロフスク・サハリンスキーにあった郷土博物館を移管したものではありますが、ソ連当局に接収された樺太庁博物館の収蔵品も併せて展示しています。

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鉄道歴史博物館(ユジノサハリンスク

また、サハリン南部ではソ連時代以降も日本統治時代の鉄道インフラがそのまま使われていたこともあり、レーニン広場前のユジノサハリンスク鉄道駅の右側にある鉄道歴史博物館では、日本から寄贈された車両や当時の日本統治時代の鉄道の歴史などについての展示を見学することができます。

 

5. 各地の製紙工場跡

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ポロナイスク(敷香)の製紙工場跡

南樺太の発展と切っても切れない関係にあるのは、この地で栄えた製紙産業です。手付かずの森林が残されていたここ南樺太には多くの製紙工場が建設され、その一帯が大きな町として繁栄しました。ドリンスク(落合)、コルサコフ(大泊)、ホルムスク(真岡)、トマリ(泊居)、ウグレゴルスク(恵須取)、ポロナイスク(敷香)、チェーホフ(野田)などでは、製紙工業の跡が廃墟として残っています

 

6. 各地の神社跡

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トマリ(泊居)に残された鳥居

日本統治時代には、日本人の移住に伴い、神社が数多く建設されました。その大半はソ連時代以降に荒廃してしまいましたが、今もなお、鳥居が残っている場所が複数個所あります。ヴズモーリエ(白浦)にあった東白浦神社、トマリ(泊居)にあった泊居神社、ウグレゴルスク(恵須取)にあった恵須取神社では、今も鳥居が当時のまま残されています。

 

他にも、オゼルスコエ(長浜)にあった長浜神社の忠魂碑や、ユジノサハリンスク(豊原神社)にあった樺太神社の参道(現在は栄光広場として整備)など、各地に神社の痕跡が一部残っているので、興味のある方は、こうした神社の史跡を巡ってみるのもアリかもしれません。

 

7. 樺太遠征軍上陸記念碑

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樺太遠征軍上陸記念碑(プリゴロドノエ)

日露戦争終戦期にあたる1905年7月7日、日本軍はサハリン南部の女麗(プリゴロドノエ)に上陸し、その後、敗走するロシア軍を追撃して50度線以北のオノールへと到達、そこで停戦に合意し、そのまま州都のアレクサンドロフスク・サハリンスキーを制圧、全島を占領するに至りました。この樺太の戦いの勝利を記念し、上陸地点に記念碑が建てられました。

 

この上陸記念碑は、のちに倒れて今では台座と石碑に分離した状態となっています。倒れた碑には「遠征軍上陸記念碑」の文字を今もくっきりとみることができます。

 

8. 真岡郵便電信局跡地

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真岡郵便電信局の跡地(ホルムスク)

第二次世界大戦終結期の1945年8月20日ポツダム宣言受諾~降伏文書調印のあいだの期間にあたる)、ソ連は豊原(現ユジノサハリンスク)制圧に向けた足掛かりとして真岡(現ホルムスク)に上陸、この地を制圧しました。その戦闘のさなか、この町の郵便電信局で電話交換手として勤めていた女性たちが集団自決をするという事件(真岡郵便電信局事件)が発生、9名の尊い命が失われることとなりました。

 

- 可香谷シゲ(23歳)
- 高石ミキ(24歳)
- 渡辺照(17歳)
- 松崎みどり(17歳)
- 沢田きみ(18歳)
- 吉田八重子(21歳)
- 高城淑子(19歳)
- 伊藤千枝(22歳)
- 志賀晴代(22歳)

 

ソ連軍の無差別な銃撃が町を襲うなか、ソ連軍に捕まったら何をされるかわからないという恐怖のなか、女性たちは自決を決意、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」と通信を閉じ、次々と服毒して自ら命を絶っていったのでした。

 

恵須取(現ウグレゴルスク)郊外の大平炭鉱での集団自決事件に続いて起きた悲惨な事件は、今の戦後世代の間では風化も進んでいますが、稚内公園には今も「九人の乙女の像(殉職九人の乙女の碑)」が慰霊碑として残されています。

 

現代になっても、ここ真岡郵便電信局の跡地には、ロシア郵便と郵便銀行(Почта России / Почта банк)が入っていることが確認できます。建物の面影はなくても、今も真岡郵便電信局はロシア郵便として形を変えて息づいています。

 

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かつての日ソの激戦地、熊笹峠(ホルムスク峠)

いかがだったでしょうか?

 

日本とロシア(ソ連)がかつて陸地で接していた南樺太には、1905年の樺太上陸から1945年の撤退に至るまでの日本人の痕跡が残っていることをお伝えできたかと思います。

 

今回ご紹介したもの以外にも、日本時代の橋梁や鉄道の跡など、サハリンにはまだまだ数多くの日本時代の痕跡が残されています。本ブログの情報が、皆様それぞれのサハリンの旅を楽しむ一助となりますことを切に願っております。