ハリド日記~ハリドのOfficial Blog~

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【戦後世代に伝えたい】樺太に残った日本人に会いに行きました。

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サハリン日本人会の白畑正義会長(当時)

ロシア最大の島として知られるサハリン島先住民族の島だったこの地に日本人とロシア人が住み着き、その後、雑居の期間を経て、1875年にロシア領、1905~1945年にかけては北緯50度線以南が日本領、そして1945年8月から全島をソ連が支配した、そんな歴史的経緯を辿った島です。

 

そんなサハリンには、実は、戦後に引揚船に乗らずに残った日本人が今も少数ながら暮らしています。戦後史に葬り去られた在樺日本人の歴史。実際に残った日本人の話を直接聞くため、私はアポイントを日本で済ませ、サハリン州の州都ユジノサハリンスク にあるサハリン日本人会を訪れることにしました。

 

日本統治時代の南樺太では、製紙工場や炭鉱などができ、森林や炭鉱での労働などのため、内地から多くの日本人が移住しました。その結果、1906年にはわずか1万2000人ほどだった日本人の人口は、1933年には30万人を超えるまでに膨れ上がりました。

 

最も近い海外、ユジノサハリンスク

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コルサコフ上空を通過

世界的に見ると秘境という扱いのサハリンですが、隣接する日本からはなんと直行便も飛んでいます。2019年5月の訪問時には、オーロラ(サハリン航空ウラジオストク航空が合併してできた航空会社)が成田(東京)と新千歳(札幌)に就航しており、非常にアクセスがしやすい状況でした。ロシアの電子査証を利用しての8日間の訪問で、その2日目に白畑さんとのアポイントメントを入れて訪問することにしました。

 

成田国際空港からユジノサハリンスクの飛行時間は約2時間。ウラジオストクソウル、釜山まで約2時間半ということを考えると、東京から最も近い海外ということになります。沖縄の那覇空港までも約3時間なので、そのアクセスの良さが実感いただけると思います。

 

サハリンに到着!

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ユジノサハリンスク国際空港

宗谷岬 を眼下に見下ろして約10分。サハリン最南端のクリリオン岬が見えたと思えば、その時点で既に機体はかなり高度を下げていました。そこからコルサコフを右手に見ながら機体はさらに降下を続け、市内南部にあるユジノサハリンスク国際空港へと着陸しました。

 

日本とサハリン州 の時差は+2時間。日本ではまだ夕方の午後7時だとしても、サハリンでは既に午後9時となっています。入国審査を済ませ、市内へとタクシーで出ると、そのときには既に午後10時になろうとしていました。

 

その日はナイトクラブやバーなどを除けば店は既に閉まっており、特にすることもないのでそのままホテルにチェックイン。サハリン到着を日本人会に報告し、翌日の訪問に備えて就寝することにしました。

 

サハリン日本人会へ訪問!

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サハリン日本人会の白畑会長(当時)と歓談

ユジノサハリンスク滞在2日目、市内でレンタカーを借り、車で日本人会に向かいました。そこで出迎えて下さったのが、当時のサハリン日本人会の会長でいらっしゃった白畑正義さんでした。白畑さんは、1939年にフボストボ(当時の内砂/ないしゃ)で生まれ、樺太 の戦い(1945年8月)のあともサハリンに留まった在樺日本人のうちの1人です。

 

白畑さんは終戦 時に幼かったこともあり、その記憶のほとんどがソ連 時代以降のもので、日本時代のことは覚えていらっしゃらなかったため、生い立ちやソ連時代のお話を中心にお話を伺いました。

 

そのお話は動画内で紹介していますので、ぜひそちらをご覧ください。

youtu.be

【動画】白畑正義さんとのインタビュー動画

 

今も各地で暮らす日本人たち

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敷香(ポロナイスク)で生まれた横綱大鵬の像

1905年から1945年にかけての日本統治時代、当時の政府が辺境開拓のために南樺太 への移住政策を促進したこともあり、1906年に1万2000人ほどだった日本人の人口は、1933年には30万人を超えるまでに膨れ上がりました。そして、その多くが戦後に日本へと引揚船で送還されたのです。

 

白畑さんを含め、少なからぬ日本人(特に在樺コリアンと結婚した日本人女性)が、日本への帰還を諦めてそのままサハリンに残留し、のちにソ連政府から国籍(ソ連崩壊後はロシア国籍)を付与されて、ロシア人などソ連構成国の国民と同じ扱いを受けて暮らしたのでした。

 

南サハリンの主要な町であるユジノサハリンスク豊原)、ポロナイスク(敷香)、ウグレゴルスク(恵須取)といった場所では、今も残留日本人やその子孫が暮らしています。南部では、ファミリーネームに日本名を持つ方と出くわすことがあります。その多くが、日本統治時代に土人教育所」オタスの杜で教育を受け、日本名を付与されていた少数民族か、戦後も日本に帰還せずに残った在樺日本人のどちらかに関係しています。

 

永住帰国という選択

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白畑さんが定年まで過ごされた町トマリ(泊居)

サハリン日本人会の会員の多くが、高齢による高度医療の必要性などを理由に慣れない日本へと移住した1990年代~2010年代。白畑さんは、2019年5月当時はサハリンで骨を埋める気持ちでいたことが、私のインタビューからも伺えます。

 

人生の大半を過ごしたトマリから、定年になって州都ユジノサハリンスクに出てきて、そしてその後に日本人会の会長まで務められた白畑さんにとって、永住帰国というかたちで、最愛の妻が眠る地ユジノサハリンスクを離れ、人生で一度も過ごしたことのない日本本土に永住する決意をされたことは、かなりの苦渋の選択であったように思います。

 

戦後日本の家庭に生まれた私には、愛する故郷、そして愛するご家族の多くと離れる選択をされた白畑さんの、そのお気持ちを推し量ることなど到底できませんが、それでも、「愛する地サハリンで骨を埋めるべきか、高度な治療で長く生きるために日本に行くべきか」という究極の選択を、在樺日本人の方々が今も迫られているということは、戦後世代の一員として、我々はきちんと知っておく必要があるように思います。

 

質問やご意見はコメント欄までお寄せください。私のブログは旅ブログですので、サハリン(樺太)にまつわる政治的なご発言についてはお控えいただきたく、よろしくお願い申し上げます。