ロシア最大の島として知られるサハリン島。かつて先住民族の島だったこの地は、かつての雑居の時代を経て、1875年からロシア領、1905~1945年にかけては北緯50度線以南が日本領として日本が統治していた歴史があります。
ポーツマス条約(1905年)でロシアから獲得した南樺太は外地という扱いとなり(1943年に内地へ編入)、1907年には樺太庁が設置され、豊富な森林資源や海産物、石炭などの本土への供給源として、この島が利用されることとなりました。その結果、内地から多くの労働者とその家族がこの辺境の地へと赴き、終戦間際には約40万人もの人々がこの北方の地に暮らしていました。
日本は日露戦争の際のみならず、シベリア出兵の際にも全島を制圧したため、必ずしも40年間ずっと北緯50度線が両国の境界であり続けたわけではありませんが、国際法上はここが国境としてずっと機能してきました。
サハリン自体が人口の少ない辺境地ということもあり、両国ともサハリンの国境地帯にほとんど兵力を割いていませんでしたが、終戦期には北緯50度線付近が「樺太の戦い」(1945年8月11日~8月25日)の最初の戦場となり、激戦が繰り広げられることとなりました。
本記事では、そんなサハリンの旧国境周辺の見どころの情報を、50度線から南へと順にご紹介します。この地で終戦期に日ソ両陣営が辿ったストーリーを、ぜひ現地で肌で触れてみて下さい。
1. 旧国境の碑(北緯50度線)
まずご紹介するのは、かつての旧国境(日本側)に建てられたソ連の碑です。
日本が築いた国境標石への山道と幹線道路が交わる地点に建てられたこの碑は、日露戦争で奪われた南サハリンを取り戻したというストーリーのもと建てられたもので、ソ連側の、日本に対する当時の心情が色濃く見受けられる碑となっています。
2. 天第三號(北緯50度線)
その旧国境の碑から奥に続く山道を進むと、日本統治時代につくられた国境標石「天第三號」の跡地にたどり着きます。この標石自体は現在、ユジノサハリンスクにあるサハリン州郷土博物館で展示されており、現地には台座部分しか残っていません。しかし、この地が40年ものあいだ日本の施政下にあった痕跡を生で見ることができます。
3. 半田陣地(旧国境付近)
旧国境の碑から幹線道路を南下すると、まずはロチノ(半田)の右手にトーチカの跡が見えます。日本が築いたこのトーチカ群は、樺太の戦いの初期に戦場となった場所です。
旧国境から中央軍道を下った最前線にあったここ半田を守っていた歩兵と国境警備隊の約100名は、8月11日の午前5時頃から翌日にかけての戦闘で玉砕、その際のソ連の猛攻の跡は半田のトーチカ群に今も深く刻み込まれています。
4. 日ソ平和友好の碑
樺太の戦いの最初の激戦地となった半田(ロチノ)と古屯(ポベジノ)の間の幹線道路上に建てられた記念碑です。大戦時の対立を乗り越え、新しい日ソ平和友好の時代を迎えようとの思いを込めて建てられたものです。
※背景
ソ連は、1945年4月のヤルタ会談での極東密約で、「ドイツへの戦勝から2か月から3か月後」に実施されることとなった対日参戦の見返りに「サハリン南部と周辺島嶼部の返還」「千島列島の引き渡し」を米英から約束されていたソ連は、独ソ戦の勝利から3か月後にあたる8月9日、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告しました。ソ連を通じた日米仲介を唯一の頼みとしていた日本は、ここで無条件降伏か一億総玉砕かという究極の二択を迫られることになり、二度の原爆投下と相まって、昭和天皇のご聖断により無条件降伏する運びとなりました。
戦後に東西冷戦に突入すると、日ソ間の領土返還交渉が米軍基地問題へと飛び火し、アメリカから二島返還ではなく四島返還を要求するよう要請された日本と、米軍による北方領土の軍事基地化を恐れたソ連との間では、領土確定も平和条約締結もできぬまま、ただただ時が流れる状態に陥ってしまいました。
こうした状況のなか、日ソの平和友好条約締結への願いを込め、かつて激戦地となったサハリンのポベジノ(古屯)北方に、両国の友好を願う碑が建てられました。
この日ソ平和友好の碑から幹線道路の反対側を見ると、かつての戦闘で破壊された日本軍のトーチカの跡が今も残されています。
5. ソ連軍戦没者墓地(ポベジノ)
ポベジノの町の北郊外には、ソ連時代に建設された戦没者慰霊碑と共同墓地があります。ここポベジノ(古屯)では、歩兵第125連隊の第一大隊が侵攻してきたソ連軍と交戦、激戦が繰り広げられました。この地で日本軍の歩兵第125連隊の第一大隊がほぼ壊滅し、8月18日になってソ連軍と停戦しました。
この激戦地で亡くなったソ連兵たちを追悼して建てられたこの慰霊碑の前には、戦死者の名前が刻まれた墓碑がずらりと並んでいます。
6. 樺太・千島戦没者慰霊碑(ポベジノ)
大戦末期の樺太(南サハリン)と千島列島(クリル列島)での戦闘によって犠牲となった人々を追悼するため、ソ連軍戦没者墓地の奥に日本によって建てられたものです。樺太の戦いや占守島の戦いなど、日本とソ連の間では幾多の戦いが繰り広げられ、多くの人命が失われました。
日本軍とソ連軍の双方の慰霊碑が隣接する数少ない場所で、日ソ双方にとって重要な戦いであったことがここからも窺い知ることができます。
ちなみに、戦没者慰霊碑からさらに奥の道に入ると、弾薬庫なども見ることができますので、こちらも併せて見学してみることをオススメします。
7. 南サハリン解放記念碑(ポベジノ)
ポベジノの町内に建てられた記念碑です。この「ポベジノ」自体が対日戦の勝利を記念してつけられた名前で、この地での激戦を制したことにどれだけソ連側が思い入れを持っていたかを強く感じられます。
スターリンが対日参戦の条件として真っ先に提示したのが「南サハリンの返還」だったことからも、日本に「奪われた」南半分の領土を奪還したいという思いが強くあったこと、そしてそのソ連側のこの地への思い入れがここ「解放記念碑」に表れていることなどを踏まえると、サハリン訪問時には絶対に訪れておきたい場所のひとつです。
8. ポベジノ駅(ポベジノ)
日ソの緊張の高まりを受け、1943年に軍用列車の停車駅としてつくられた古屯駅に由来する鉄道駅です。開業当時は日本最北端の鉄道駅であり、樺太の戦いにおいては、その戦略的な重要性もあり、この駅周辺でも日ソ両軍が交戦しました(8月15日)。
今でも南北サハリンを結ぶ鉄道駅として機能しており、南部のユジノサハリンスクやポロナイスクと北部のノグリキを結ぶ鉄道の停車駅となっています。
9. レオニド・スミルヌイフ像(スミルヌイフ)
日本統治時代には気屯と呼ばれていたこの地には、1943年から1945年にかけて、日本軍の歩兵第125連隊が駐屯していました。樺太の戦いの結果、ソ連が南サハリンを獲得したのち、古屯(現ポベジノ)での戦いで戦死した大隊長のレオニド・スミルヌイフに因んでスミルヌイフと改称されました。町のなかには、彼の功績を記念して銅像が建てられています。
ちなみに、市街にある公園には、他にも対日戦で使われたと思われる戦車のモニュメントもあり、こちらも町のランドマークとして親しまれています。
10. アントン・ブユクリ像(ブユクリ)
日本統治時代には保恵と呼ばれていたこの地は、樺太の戦いの結果、ソ連が南サハリンを獲得したのち、古屯(現ポベジノ)での戦いで戦死した上級軍曹のアントン・ブユクリに因んでブユクリと改称されました。村の庁舎の前には、彼の功績を記念して銅像が建てられています。
11. 戦没者記念碑(レオニドヴォ)
日本統治時代に上敷香と呼ばれたこの地には、樺太の戦い当時、中央軍道の日本軍主力部隊が駐屯していました。8月17日に上敷香からの住民退避が完了すると、日本軍による放火やソ連軍機による爆撃によって町は消滅、のちにソ連当局が、対日戦の英雄レオニド・スミルヌイフに因んだ集落レオニドヴォとして再興しました。
古屯(ポベジノ)での戦いで戦死した大隊長レオニド・スミルヌイフと上級軍曹アントン・ブユクリは、ソ連当局によってつくられた戦没者記念碑の敷地内で今も安らかに眠っています(正面左がスミルヌイフ、右がブユクリ)。
いかがだったでしょうか。
旧国境からポロナイスク(敷香)の間に位置するかつての中央軍道の一帯には、多くの戦跡が残されています。日本史であまり取り上げられない樺太の戦いについて考える良い機会になると思いますので、サハリンをご旅行される際は、ぜひポロナイスクから日帰りなどで訪れてみて下さい!
こちらの動画で旧国境付近の見どころを映像で紹介しています。
ぜひ併せてチェックして頂けると幸いです。