ハリド日記~ハリドのOfficial Blog~

行ってみたところや世界の雑学など

【インドネシア旅行】何もない?訳がなかったジャカルタ

みなさん、お久しぶりです!

 

今日は、ゴールデンウィークを使った2022年度初の海外旅行についての投稿になります。

 

訪問した国はインドネシア

※地味に初訪問でした…。意外ですが。

 

1. 渡航の経緯

さて、私がインドネシアに行こう、と思い立ったのは3月のこと。

 

私がフリーランスになって初めての依頼をくれた恩人で友人のSさんと遊んだとき、インドネシアの国境が開きつつあるという話を聞いたのがキッカケでした。

 

当時はバリ島のみしか観光客は受け入れていませんでしたが、インドネシアのオンライン上の知人とも相談し、期待を込めてジャカルタとの往復便を予約しました。

 

それからしばらくは、「本当にGWまでにジャカルタからの観光客の入国が受け入れられるのだろうか…?」と、不安に駆られながらの日々を送っていましたが、4月6日にはジャカルタからの観光客のVOAでの入国が認められ、無事に渡航が叶うことに…!

 

しかし、直前になって私の搭乗予定の飛行機がキャンセルされ、新たに約17万をはたいて航空券を取るというハプニングもありましたが、背に腹はかえられぬと、意志を曲げずにインドネシア行きを決行したのでした。

 

2. いざジャカルタへ!

インドネシアの入国には、PeduliLindungi というアプリのダウンロード、そして海外旅行保険の証明などが必要となります。

 

PeduliLindungiでは、プロフィールの記入のほか、事前にワクチン接種証明書を3回分登録しておきました。そして、海外旅行保険は、念のため日本の保険会社で予約しました。

 

そんなこんなで、事前の準備を済ませて出国当日を迎えた訳ですが、出国時のチェックインカウンターでは、①PeduliLindungiのプロフィール欄、②海外旅行保険、③ワクチン接種証明書、④PCR検査の陰性証明書、の4つがチェックされました。

 

※入国時には、PeduliLindungiでのQRコードのスキャンが求められたほか、VOAのカウンターでは、PCRの陰性証明書の提示と36ドル(5000円)の支払いが求められました。

 

3. 魅惑のコタ地区

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インドネシアの首都ジャカルタに降り立った私が滞在先に選んだのは、オランダ植民地時代のコロニアル建築が立ち並ぶコタ地区(Kota Tua)というエリアです。

 

日本人の多くがタムリンなどの中央ジャカルタに宿泊するなか、私がこのエリアにこだわったのは、都会の雰囲気というよりは歴史的な雰囲気を感じたかったからです。

 

ジャカルタに位置し、中央ジャカルタや南ジャカルタなどへのアクセスはあまり良いとは言えませんが、利便性より、自分の旅のこだわりを優先したわけです。

 

という訳で、そんなコタ地区で撮った写真を軽く紹介します!

 

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こちらはコタ地区の中心、ファタヒラ広場にあるかつてのオランダ植民地時代の執務室があった建物です。現在はジャカルタ歴史博物館として利用されています。

 

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ファタヒラ広場の人気スポットとなっているのがこちら、カフェ・バタヴィア(Cafe Batavia)です。バタヴィアというのは、オランダ植民地時代のジャカルタの名称で、実際に当時の上流階級が集ったであろうカフェの雰囲気が感じられるスポットです。

 

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コタ地区の北部に残されている「VOC」オランダ東インド会社の倉庫跡は、今は海洋博物館となっていました。

 

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ジャカルタはアラブ世界とも繋がりが深く、イエメンのハドラマウト地方から移民したハドラミーが多く暮らしています。そんなハドラミーの1人が眠るのがここ、Makam Habib Hussein Luar Batang。多くの方が礼拝に訪れていました。

 

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海外メディアにも取り上げられる水没モスク。ジャカルタ地盤沈下が世界一の速さで進行しており、その脅威をこの目で見ることが出来ました。手を伸ばしてカメラを壁より高くして撮影した1枚。

 

コタ地区周辺の散策は本当に楽しく、他の東南アジア諸国とはまた違った、オランダならではの運河中心の町づくりの思想と東南アジアの地域性がミックスされた独自の雰囲気を味わうことができました。

 

次の記事では、コタ地区から一歩外に出て、華僑が多く暮らす「中華街」グロドック(Glodok)について紹介しようと思います!

 

ではでは!

ハリドの近況報告〜2021〜

お久しぶりです。ハリド日記も久しぶりの更新となりました。

 

ちょっと今回は、年末なので、振り返りと来年の目標について書きます。あくまで振り返りという個人的な自己満の記事なので、その点は悪しからず…。

 

【2021年に行った場所】

日本国外:バーレーンアラブ首長国連邦シンガポール(3か国)

※新規開拓はなし

 

日本国内:兵庫県大阪府、東京都、奈良県京都府静岡県

 

...と、こんな感じで、相変わらず移動に制約はかかりましたが、基本的には秋の帰国から国内旅行を満喫してました。

 

中東中心の生活から日本中心の生活に移って4か月ほどが経ち、だいぶこちらでの生活リズムも安定してきた感じがします。

 

【戻ってきた?日本的感覚】

中東でアラブ人といる環境と、日本で日本人や日本在住の外国人に囲まれている環境とでは、あまりにも違いが多く、ここ2年間以上の海外生活で培った価値観がここにきてまたガランと変わりました。

 

これまでは英語でのインプットが中心で、日本語での情報のインプットが少なかったものの、この頃は半分以上が日本語でのインプットです。

 

英語を使う場面は、本当に外国人と話すときぐらいで、あとは能動的に英語ネイティブのYouTubeチャンネルを観て英語に触れる総量をなるべく減らさないように注意しています。ちなみに、アラビア語はほぼゼロの環境です。

 

【ロシアについて勉強】

帰国してから発見したYouTubeチャンネルが、イギリス人YouTuberのbald and bankruptでした(Daily Baldも観てます)。

 

もともと彼のキャラクターが面白くて興味本位で見始めたものの、そこから旧ソ連の雰囲気に惹かれ、ベラルーシウクライナ、ロシアなどの東欧諸国に一気に関心が引き寄せられました。

 

そこからは、極東ロシアのスパッスク=ダリニー出身のロシア人(女)のチャンネルYeah Russiaや、ウラル山脈近くの大都市チェリャビンスク出身のロシア人(男)のチャンネルNFKRZなどもチェックするようになり、結構ロシアへの興味が膨らんで、軽くロシア語も初歩レベルで勉強を始めています。

 

【中東から極東へ?】

これまでアウトプットはTwitterInstagramばかりだった私。しかし、帰国してからは、日本人向けYouTubeチャンネルもちょっといじってみました。

 

現在、「これからは中東だけじゃないよ!」という意思表示も込め、最後に極東ロシアのサハリンの旅行記を上げたまま寝かせています。またやりたいコンテンツが出てきたら、また再開しようと思います。

 

一応、Yandexというロシアの地図アプリでは、けっこう色んな極東ロシアの町をチェックしているので、今後の休暇では、行けたらな…と夢見ています。

 

【今の私生活】

そろそろ30代が現実的に見えてくる年齢となり、「自分を見つめ直すタイミングかな?」と思ったかどうかはさておき、プライベート面でも色々と進展がありました。

 

これまで島国バーレーンでかなりアクティブに動いてきた一方、心のどこかで「何でこんなリターンの少ない環境で孤軍奮闘しなきゃいけないんだ」と自暴自棄になっていた(というか精神的な支援が少なくて疲れていた)自分がいました。

 

そんなタイミングで、新会社HOSHIへの事業引き継ぎとProzone閉鎖の手続きが終わって帰国(当時は一時帰国のつもりだった)が叶ったあと、秋に「このまま日本を拠点に住もう」と決意する出来事があり、そういった経緯で現在も日本を拠点に生活しています。

 

【2021年総括】

2021年を総括すると、前半は「バーレーン生活→完全燃焼」、後半は「日本帰国→未来への準備」だったといっていいと思います。

 

2021年は、おそらくここ8年で最も移動していない1年でした。今年は、バーレーンと日本という2カ国での生活を半分ずつ送り、キャリアとプライベートを天秤にかけたうえで今のプライベートを優先した、というのが正直なところでしょう。

 

去年と同様、色々と山あり谷ありの1年でしたが、恐らくこれが今の自分にとって最善の選択だったと思っています。

 

【2022年の目標】

2021年は、恐らく後の人生から振り返ると、「2022年のための準備期間だった」ということになりそうです。詳しいことはまだ今は言えませんが、かなり色々なことを考えてきました。

 

今年は基本的に大阪にいますが、来年は東京にいることが多くなります。というか、まあ東京に住んでいますね。笑

 

海外旅行の趣味はとりあえずひとまず置いておいて、とりあえず今は目の前の目標に向けて行動していきたいと思います。

 

【今の興味】

バーレーンを拠点に起業したあたりから、「海外を股にかける旅人ハリド」というノマド生活が遠のいたわけですが、そんな自分が興味を持つ内容が3つあります。

 

1. 歴史探訪

高校2年生のときに世界史を始めてから、地理や生物の授業以外に歴史にも熱中するようになった私。

 

それまでは歴史を日本という狭い領域でしか見られていませんでしたが、世界史を知ってからは、世界の歴史が及ぼした日本史への影響、というよりマクロな視点で日本を見ることができるようになりました。

 

日本を拠点にしたこの機に、ぜひ元寇ゆかりの対馬鷹島、そしてキリスト教文化の残る五島列島あたりには是非行ってみたいですし、他にも「アイヌ文化と和人の開拓民」という視点で北海道を巡ってみたいな、と思います。

 

2. 海外旅行先リサーチ

日本を拠点にする(ノマド生活や海外生活をひとまず封印する)決意をしたので、いかにコスパ良くプレミア感のある海外旅行を気軽にできるか、を真剣に考えています。

 

先ほど取り上げた極東ロシアは最優先ですが(笑)、他にも、実はまだ見ぬ国モンゴルやミクロネシア地域、そして旧満州吉林省遼寧省あたりにも是非行ってみたいな、と思っています。

 

ちなみに、「極東ロシアは最優先」と言ったなかでも特に推しなのは、アムール州の州都ブラゴヴェシチェンスク、ユダヤ自治州のビロビジャン、尼港ことニコラエフスク・ナ・アムーレ、2015年まで閉鎖都市だったボリショイ・カーメニ、ロシア連邦最大の共和国の首都ヤクーツクです!(シベリア鉄道バム鉄道も乗りたい)

 

3. 幸福追求

これまでの自分は、我が道をゆく、と言いながらも、けっこう他人に流されながら生きてきた気がします。

 

我が道をゆく自分を承認してほしい、という哀しい欲求があったことは否定できず、周りの精神的なサポートを期待してしまったことについては間違いなく事実です。

 

これまでありがたいことに、一つの後悔もなく歩んで来れているので(反省だらけではあるが)、自分のこれまでを見つめ直し、私が本当に願う幸せって何なのだろう、というところを突き詰めて考え、残りの人生をより充実させたいな、と考えています。

 

これからは、他人の承認を得ようとは考えず、心から思った通りの人生を歩もうと思います。

 

(※)「幸福」という哲学というか思想信条というか、まあそういったあたりに関わる話題ですが、宗教に勧誘されたとか、入信したとかそういうのではないのでその点は悪しからず…。

 

というわけで、今も繋がっている皆さん、今年はありがとうございました。来年も仲良くしましょう!

【イラク旅行】バグダッド(バグダード)の観光名所を巡ってみた

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バグダッドタワー

イスラム国(ISIS)を壊滅させてから、治安が比較的安定を取り戻しつつあるように見えるイラククルディスタン地域では安定が続きビザなし渡航ができる状態ではありましたが、イラク本土は当時はとても個人旅行ができる状況ではありませんでした(※今と違いビザが全く下りなかった)。しかし、二度のイラク渡航を経てもバグダッド訪問を諦めきれなかった私は、イギリスの旅行会社がイラク訪問ツアーを催行していると知り、イギリスまで直接話を伺いに行って、安全性を確認したうえでツアーを申し込みました

 

ローマ教皇イラク訪問を契機に、イラク当局は2021年3月から日本パスポート保有者を含む一部に対してアライバルビザを解禁したことから、今ではどの空港でも到着時にビザが取れる状況となっています。しかし、古代遺跡など一部の観光施設ついては事前に許可を取っておく必要があるため、主要都市を外れて観光する場合、旅行会社でツアーを申し込むことをオススメします。

 

 

1. バグダッド到着!

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混雑するバグダッドの道路

私自身は、当時ドバイに滞在していたこともあり、現地LCCのフライドバイでドバイからイラクへと入国しました。首都バグダッドまではトルコのイスタンブール国際空港やUAEドバイ国際空港カタールのハマド国際空港など中東の主要なハブ空港から直行便が飛んでいるため、アクセスは簡単です。

 

実は、私のツアーでは2017年当時から既にアライバルビザの形式であったため、今と変わらずにバグダッド国際空港で到着ビザを申請しました。空港では米ドルでの支払いとなるため、事前に米ドルを用意しておいてください。

 

※今年イラクを訪れた友人によると、バスラ国際空港のビザカウンターは外国人で混雑していてオススメできないとのことでしたが、バグダッド国際空港では、2017年時点では30分もしないうちにビザが発給されました

 

2. バグダッド旧市街

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紙幣にもなっているムスタンシリーヤ学院

バグダッドが歴史上発展を始めたのは8世紀半ば、イスラーム帝国(アッバース朝)の時代のことでした。当時はイスラーム黄金期であったこともあり、マディーナ・アッ=サラーム(平安の都)と呼ばれたバグダッドは中国の都と並び立つ世界最大の都市として繁栄を謳歌しました。

 

13世紀以前の建物はモンゴル軍によりほぼ徹底的に破壊されたものの、今もチグリス川沿いにある旧市街には、ムスタンシリーヤ学院やアッバーシー宮殿(Abbasid Palace)、クラーファ・モスク(Khulafa Mosque、当時の遺構はミナレットのみ)など、モンゴル侵入以前の遺産を見ることができます。

 

ムスタンシリーヤ学院は1000イラク・ディナール紙幣にも描かれていて、屋上からは美しいチグリス川周辺の風景を眺めることができます。

 

他にも、モンゴル侵入以降(主にオスマン帝国期)につくられたモスクやハーン(隊商宿)、キシュラ(Qishla)などが保存されていて、こちらも必見です。

 

3. 他のエリア

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3B政策の舞台、バグダッド中央駅

バグダッドの主な見どころは旧市街ではありますが、それ以外のエリアにも見どころも点在しています。その中でも、チグリス川西岸にあるカージマイン・モスクシーア派イマームの廟所)やイラク国立博物館バグダッド中央駅、東岸にある王国時代の歴代君主の廟(Royal Mausoleum)などが有名です。

 

あとは、イラク共和国時代(特にフセイン政権)になってからつくられた数多くのモニュメントも必見です。特に、タハリール広場自由の碑(Freedom Monument)、市内東部の殉教者の碑(Martyr Monument)やグリーンゾーンの無名戦士の碑(Unknown Soldiers Monument)などは有名です。

 

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バグダッド中心部のカフェ

 

いかがだったでしょうか?

 

かつて黄金時代のイスラーム世界の中心地として栄えた首都バグダッドは、実際に行ってみると今も本当に魅力あふれる都市でした。2017年の訪問時は、治安の問題もあり、チェックポイントが点在していてピリピリした印象を受けましたが、治安さえ良くなればより魅力的な都市になると感じています。

 

ビザが空港で取れるようになったことで、コロナ禍以降は学生を中心に訪れる日本人が増えるとは思いますが、日本国外務省はバグダッド市内に退避勧告を出していることもあり、訪問はオススメできません。首都バグダッドの治安が改善されるまでは、ナジャフやバスラなどイラク南部、あるいはエルビルなどクルディスタン地域を訪れるに留めることも、選択肢として考えておいてください。

【サハリン旅行】まるで酒豪の島?サハリンでお酒を味わう

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サハリンビールが並ぶ売店(ネベリスクにて)

誰もが認める「飲酒大国」ロシア。ロシアと言えば、そのあまりにも寒い気候もあり、度数の濃いお酒が中心となってくるイメージが強いのではないでしょうか。

 

実は、サハリン州はロシア国内でも一人当たりのアルコール消費量がトップクラスの行政区分でもあり、そのこともあってお酒の製造も盛んです。ソ連時代からの工場も多く、社会主義クオリティのものから高品質のものまでさまざまですが、本格派のものもどんどん増えているので、当たり外れを繰り返して、自分に合う商品を見つけていってください。

 

1. ウォッカ

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ウォッカサハリン島民の楽しみの一つだ

2019年の統計で、ロシア国内最大の一人当たりウォッカ消費量が最大だったサハリン。ロシア人の比率が高く、北海道よりもさらに厳しい気候にあるサハリンでは、度数40度程度のウォッカが頻繁に飲まれます。

 

ロシア本土からの輸入も多いものの、州都ユジノサハリンスクを中心にウォッカの製造が非常に盛んで、「サハリンスカヤ(Сахалинская)」と「オホーツコエ・モーリェ(Охотское море)」の2つがかなり有名な銘柄となっています。

 

ウォッカについては、非正規品がかなり出回っていることもあり、上記の有名ブランドに限定しておいたほうが無難かもしれません。間違っても、密造酒に手を出して健康を害するようなことは絶対にしないでください

 

2. ビール

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隠れたビールの名産地サハリン

あまりにもウォッカのイメージが強いロシア。日本では意外と知られていないのが、ロシアはビール大国でもあるということ。2019年の統計では、ロシアのビール消費量は世界5位、一人当たりの消費量で見ても日本よりもはるかに多いんです…。ウォッカを飲みビールも飲む、それが寒冷地のロシア人の生活スタイルであり、サハリンの島民にもそれが当てはまります。

 

ウォッカなどの度数の高いスピリッツに慣れきったロシア人にとって、アルコール度数が5度程度のビールでは物足りるわけもなく、多くの場合1L~1.5Lのボトルでの販売となっています。日本人のように味わいながらジョッキで飲むというようよりはむしろボトルでがぶ飲みする、それがサハリンでよく見かける光景だと言ってしまっていいと思います。

 

そんなサハリンでのビール生産の拠点は、主に州都ユジノサハリンスクコロスとセヴェルナヤ・ズヴェズダや近郊のドリンスク(ドリンスキーやナギエフ)、ウグレゴルスク(ウグレゴルスキー)などで、コロスやドリンスキー、ウグレゴルスキーといったソ連時代の1940年代後半から1950年代に操業した歴史的な醸造所や、新参のセヴェルナヤ・ズヴェズダなどでは、有名銘柄「ジュグレフスコエ(Жигулевское)」が主力商品として販売されています。

 

ソ連崩壊後に操業したユジノサハリンスクのセヴェルナヤ・ズヴェズダからは人気銘柄の「コルサコフスコエ(Корсаковское)」や「オホツコエ(Охотское)」が、ドリンスクのナギエフからはクラフトビールクラフトヴォエ(Крафтовое)」などが販売されており、これらをあちこちの売店で見ることができます。

 

※アレクサンドロフスク・サハリンスキーやトマリ、マカロフなどの醸造所はソ連崩壊後に廃業してしまっています。経済的な苦境の時代が続いたとはいえ、何とも残念なことです。その一方で、世界的なビール会社として知られるハイネケンが極東ロシア向けに販売しているコメ入りビール「オコメ」もサハリンのあちこちで見られるので、日本贔屓の方が多い極東ロシアらしさを感じたい方は、こちらを試してみるのもいいかもしれません。

 

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サハリンビールは種類が多い(マカロフにて)

 

いかがだったでしょうか?

 

サハリンでは、島内での消費量の多いウォッカとビールの生産が盛んだということを今回お伝えできたと思います。しかし、サハリンでは慢性的な人口流出の問題があるため、今後も2021年現在の銘柄が全て存続できるかは未知数です。

 

しかし、コロナ禍のあとは日本人観光客向けのさらなるビザの緩和(電子ビザで16日間の滞在が可能となる)と日本サハリン間の直行便の再開が予定されていることから、今後は日本人観光客の大幅な増加も見込めるはずです。

 

ことビールに関してはボトル入りで鮮度がすぐ落ちるという問題もあり、今後も島内での消費がメインとはなると思いますが、ユジノサハリンスクの元国営醸造所コロスが開発した「林蔵ビール」など、日本人など外国人観光客にも親しまれやすい味の銘柄を増やしながら、これからも生き残りを図っていってほしいと思います。

【サハリン旅行】南北に長い島をどう移動する?

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サハリン北部の幹線道路(オハ周辺)

ロシア最大の島として知られるサハリン島。最北端のシュミット岬から最南端のクリリオン岬までは本州よりも長く、南北に非常に長いことで知られています

 

世界的に見ても、北海道に次ぐ面積の島であるサハリン島が、ここまで南北に細長いとなると、その移動がいかに大変か、お分かりいただけるかと思います。

 

最北の町オハはドイツ第二の都市ハンブルクベラルーシの首都ミンスクベラルーシ)と同じ緯度、サハリン南部の町コルサコフがスイス南部のローザンヌウクライナ南部のオデッサなどと同じ緯度であり、その緯度の差は軽く国を越えてしまうレベルです。

 

私自身、州都ユジノサハリンスクから縦横無尽に駆け巡ったサハリンの旅でしたが、幾度もオフロードや行き止まりなどに苦しみました。何とか怪我もなく無事にサハリンの旅を終わらせることができて、今となれば本当に良かったと心から思います。

 

今回は、私がサハリンで使ったレンタカーという最終手段ではなく、サハリンを公共交通機関のみでどう巡るか、そこに焦点をあてていきたいと思います。

 

1. 飛行機

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ユジノサハリンスク国際空港

最も快適に南北を移動する方法は間違いなく飛行機です。ユジノサハリンスク国際空港からは、北部のオハやノグリキ、そして西部のシャフチョルスクまでの国内線が就航しています。

 

オハやノグリキについては問題ないかと思いますが、シャフチョルスクについては気をつけていただきたい点が一つあります。実は、シャフチョルスク周辺での主な宿泊施設はシャフチョルスク(塔路)ではなくウグレゴルスク(恵須取)にあるのです…。なので、シャフチョルスク空港に到着したあとは必ずウグレゴルスク(恵須取)方面に向かってください!(※空港から約15km)

 

2. 鉄道

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ユジノサハリンスク鉄道駅

州都ユジノサハリンスクとノグリキの間を移動する場合、オススメできるのが鉄道の利用です。バスとは異なり、より広々とした空間を利用できるため、特にマカロフ以遠の長距離移動をする場合は、無難に電車を利用しましょう。例えば、ユジノサハリンスクとノグリキの間の鉄道の場合は、マカロフ、ポロナイスク、スミルヌイフ、ティモフスコエといった場所に鉄道駅が停車します。ティモフスコエとポロナイスクの間には見どころが多いものの、どこかの町を拠点として使う場合は、きちんと事前に宿泊施設を予約しておくことを推奨します。

 

ちなみに、トマリやチェーホフまでの移動を検討されている方は、西部の最大都市ホルムスクからバスで向かう方法もありますが、ホルムスクやユジノサハリンスクから鉄道で向かうこともできます。

 

3. バス

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市内観光にもバスは便利!

最後に紹介するのは、サハリンで最も発達している公共交通機関であるバスです。人口減少や老朽化などによってソ連崩壊後に鉄道網が廃止された場所が多いサハリンではかなり一般的な移動手段と言えます。鉄道のない町に行く場合はバスが唯一の移動手段となりますし、たとえば州都ユジノサハリンスクからコルサコフやホルムスク、ネベリスクなどに行く場合は、鉄道よりはバスのほうが楽かと思います。

 

もし長距離バスでの移動が苦手な方は、例えば現在の州都ユジノサハリンスクからかつての州都アレクサンドロフスク・サハリンスキーまで行くといった場合、鉄道駅のあるティモフスコエまで鉄道を利用してそこからバスで向かうことをオススメします。

 

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日本海側を走る線路(トマリ周辺)

いかがだったでしょうか?

 

サハリンといえば辺境の地で、移動が大変なイメージを持たれる方もいるかと思いますが、実は行ってみると全く難しくありません。世界的に見ても北海道に次ぐ面積の島の割に人口が北海道の10分の1以下と人口が非常に少ない島ではありますが、それでも交通の便は悪くないという印象を受けました。

 

様々な方の旅行記を見ていると、その大半が州都ユジノサハリンスク(豊原)からホルムスク(真岡)やコルサコフ(大泊)までといった短距離移動ばかりで、一番遠くてもポベジノ(古屯)北方の旧国境までの往復で終わっている印象があります。しかし、それはあくまで各旅行者の興味がそこに集中しがちだからであって、実際に時刻表などを確認すると、かなり色んな場所まで公共交通機関で簡単に行くことができます

 

とはいえ、日本人旅行者がよく行く旧国境の碑までのアクセスとなると、さすがにそれはポロナイスクのホテルで車をチャーターするのが無難ですが、そういった場合を除いた町での散策が中心の場合、それぞれの町までは公共交通機関で簡単にアクセスできるので、深く悩まずにバスターミナルや鉄道駅まで足を運んでみて下さい。

 

各地の見どころについては、本ブログの記事や私のYouTubeチャンネル、それから他の旅行者の情報などを参考にして頂けるとよいかと思います。

【サハリン旅行】かつての日本領、南樺太を巡ろう!

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日本時代の橋(チェーホフ/野田)

ロシア最大の島として知られるサハリン島。この島では、1905年から1945年にかけての約40年間にわたり、北緯50度線以南(南樺太)が日本により統治されていました。

 

そんな南樺太では、明治時代末期から大正時代にかけて、徐々にロシア名から日本名への書き換えが行われアイヌ語やニブフ語由来の地名などが混在するようになりました。

 

第二次世界大戦末期に、ヤルタ会談の際の極東密に従って、中立条約を破って日本に宣戦布告したソ連は、樺太の戦い(1945年8月11日~8月25日)の結果、サハリン全土での支配を確立し、その統治が後継国家のロシア連邦に受け継がれています。

 

日本統治時代から既に75年以上が経ち、今では日本の痕跡の多くが失われていますが、それでもなお、今もなお日本の痕跡を見ることができ、それらを見ようと多くの日本人旅行者が訪れています。

 

私は、サハリンを周遊するにあたり、こうした痕跡にも多く巡り合うことができました。正直、日本統治時代の主要な町はほとんど巡ったと思います。8日間という短い期間だったこともあり、見どころの少ない町は今回はスルーしてしまっていますが、それらの情報についても後ほど記載しますので、ぜひ併せてご確認ください。

 

戦後世代はこのあたりは詳しくないと思うので、まずは南樺太時代の行政区分(※1943年~1945年のもの)を、便宜上、現在の地名(※実際には領域が完全には一致しない)と併せて紹介します。

 

1. 樺太の行政区分

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真岡の桟橋を臨む(ホルムスク)

1907年になって、外地の南樺太の日本化を進めていくため、行政機関として樺太庁が設置されました。その後、幾度も行政区分は変更されましたが、ここでは便宜上、最後に変更された1943年以降のものを紹介します。

 

(1) 豊原支庁(南東部)

- 豊原市ユジノサハリンスク)※唯一の市

- 豊栄郡(最大の町:落合/ドリンスク

- 大泊郡(最大の町:大泊/コルサコフ

- 留多加郡(最大の町:留多加/アニワ

 

(2) 真岡支庁(南西部)

- 本斗郡(最大の町:本斗/ネベリスク

- 真岡郡(最大の町:真岡/ホルムスク

- 泊居郡(最大の町:泊居/トマリ

 

(3) 恵須取支庁(北西部)

- 恵須取郡(最大の町:恵須取/ウグレゴルスク

- 名好郡(最大の町:名好/レソゴルスコエ

 

(4) 敷香支庁(北東部)

- 敷香郡(最大の町:敷香/ポロナイスク

- 元泊郡(最大の町:知取/マカロフ

 

私自身は、南部のアニワ(留多加)や北西部のレソゴルスコエ(名好)は訪れていないため、これらの郡についての情報はそこまで詳しくありませんが、アニワはユジノサハリンスクからのアクセスも良いので、興味のある方はぜひ行ってみて下さい。

 

2. 現在の行政区分(※50度線以南)

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狛犬と郷土博物館(ポロナイスク)

(1) ユジノサハリンスク市(豊原)※唯一の独立市 

(2) ドリンスク管区(最大の町:ドリンスク/落合

(3) コルサコフ管区(最大の町:コルサコフ/大泊

(4) アニワ管区(最大の町:アニワ/留多加

(5) ネベリスク管区(最大の町:ネベリスク/本斗

(6) ホルムスク管区(最大の町:ホルムスク/真岡

(7) トマリ管区(最大の町:トマリ/泊居

(8) ウグレゴルスク管区(最大の町:ウグレゴルスク/恵須取

(9) ポロナイスク管区(最大の町:ポロナイスク/敷香

(10) マカロフ管区(最大の町:マカロフ/知取

(11) スミルヌイフ管区(最大の町:スミルヌイフ/気屯

 

こう見ると、今もなお、50度線以南では、日本統治時代の各行政区分の最大の町が現在もそのままの地位を維持していることがよくわかります。日本統治時代の繁栄が、ソ連により継承され、ロシア連邦になってからも維持されている、つまりそういう状況になっているわけです。

 

3. 各エリアの最大都市を訪ねよう!

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北海道拓殖銀行大泊支店跡(コルサコフ

日本の撤退後、50度線以南のサハリンには、日本国籍を喪失して引揚船に乗れず、残留を余儀なくされた朝鮮人在樺コリアン)など以外にも、新たにロシア人を中心に旧ソ連の国民が移住してきました。現在、南サハリンの主要な町ではロシア人が多数派となっており、どこに行っても町の雰囲気はロシア化している印象を受けます。

 

私自身、日本の痕跡が色濃く残っていると強く感じた町は数えるほどしかなく、ほとんどの町ではもう完全に異国そのものといった雰囲気でした。日本時代の痕跡は、州都ユジノサハリンスクなどを除けば、かつて王子製紙などの製紙会社が建てた工場跡が中心となっています。

 

少なくとも、南樺太の戦後の変化を味わいたい方については、とりあえずは、上記に挙げた、かつての樺太の行政区で最大の町を巡ることをオススメします。特に、ユジノサハリンスク(豊原)やポロナイスク(敷香)、ウグレゴルスク(恵須取)などでは、郷土博物館で日本統治時代の資料を見ることができます

 

4. ユジノサハリンスク(豊原)

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サハリン州郷土博物館(ユジノサハリンスク

かつてロシア人が築いたウラジミロフカ村を改称して名づけられた豊原。日本統治下の南樺太で唯一の市として繁栄し、今でも日本時代に碁盤の目のように整備された名残が見られます。ユジノサハリンスク(「南サハリン市」の意)と改称した今も、日本統治時代の痕跡は市内に残されており、特にサハリン州郷土博物館の建物はかつての樺太庁博物館のものをそのまま利用していて、保存状態は抜群です。サハリン州郷土博物館自体は、かつての州都アレクサンドロフスク・サハリンスキーにあった郷土博物館を移管したものではありますが、ソ連当局に接収された樺太庁博物館の収蔵品も併せて展示しています。

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鉄道歴史博物館(ユジノサハリンスク

また、サハリン南部ではソ連時代以降も日本統治時代の鉄道インフラがそのまま使われていたこともあり、レーニン広場前のユジノサハリンスク鉄道駅の右側にある鉄道歴史博物館では、日本から寄贈された車両や当時の日本統治時代の鉄道の歴史などについての展示を見学することができます。

 

5. 各地の製紙工場跡

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ポロナイスク(敷香)の製紙工場跡

南樺太の発展と切っても切れない関係にあるのは、この地で栄えた製紙産業です。手付かずの森林が残されていたここ南樺太には多くの製紙工場が建設され、その一帯が大きな町として繁栄しました。ドリンスク(落合)、コルサコフ(大泊)、ホルムスク(真岡)、トマリ(泊居)、ウグレゴルスク(恵須取)、ポロナイスク(敷香)、チェーホフ(野田)などでは、製紙工業の跡が廃墟として残っています

 

6. 各地の神社跡

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トマリ(泊居)に残された鳥居

日本統治時代には、日本人の移住に伴い、神社が数多く建設されました。その大半はソ連時代以降に荒廃してしまいましたが、今もなお、鳥居が残っている場所が複数個所あります。ヴズモーリエ(白浦)にあった東白浦神社、トマリ(泊居)にあった泊居神社、ウグレゴルスク(恵須取)にあった恵須取神社では、今も鳥居が当時のまま残されています。

 

他にも、オゼルスコエ(長浜)にあった長浜神社の忠魂碑や、ユジノサハリンスク(豊原神社)にあった樺太神社の参道(現在は栄光広場として整備)など、各地に神社の痕跡が一部残っているので、興味のある方は、こうした神社の史跡を巡ってみるのもアリかもしれません。

 

7. 樺太遠征軍上陸記念碑

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樺太遠征軍上陸記念碑(プリゴロドノエ)

日露戦争終戦期にあたる1905年7月7日、日本軍はサハリン南部の女麗(プリゴロドノエ)に上陸し、その後、敗走するロシア軍を追撃して50度線以北のオノールへと到達、そこで停戦に合意し、そのまま州都のアレクサンドロフスク・サハリンスキーを制圧、全島を占領するに至りました。この樺太の戦いの勝利を記念し、上陸地点に記念碑が建てられました。

 

この上陸記念碑は、のちに倒れて今では台座と石碑に分離した状態となっています。倒れた碑には「遠征軍上陸記念碑」の文字を今もくっきりとみることができます。

 

8. 真岡郵便電信局跡地

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真岡郵便電信局の跡地(ホルムスク)

第二次世界大戦終結期の1945年8月20日ポツダム宣言受諾~降伏文書調印のあいだの期間にあたる)、ソ連は豊原(現ユジノサハリンスク)制圧に向けた足掛かりとして真岡(現ホルムスク)に上陸、この地を制圧しました。その戦闘のさなか、この町の郵便電信局で電話交換手として勤めていた女性たちが集団自決をするという事件(真岡郵便電信局事件)が発生、9名の尊い命が失われることとなりました。

 

- 可香谷シゲ(23歳)
- 高石ミキ(24歳)
- 渡辺照(17歳)
- 松崎みどり(17歳)
- 沢田きみ(18歳)
- 吉田八重子(21歳)
- 高城淑子(19歳)
- 伊藤千枝(22歳)
- 志賀晴代(22歳)

 

ソ連軍の無差別な銃撃が町を襲うなか、ソ連軍に捕まったら何をされるかわからないという恐怖のなか、女性たちは自決を決意、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」と通信を閉じ、次々と服毒して自ら命を絶っていったのでした。

 

恵須取(現ウグレゴルスク)郊外の大平炭鉱での集団自決事件に続いて起きた悲惨な事件は、今の戦後世代の間では風化も進んでいますが、稚内公園には今も「九人の乙女の像(殉職九人の乙女の碑)」が慰霊碑として残されています。

 

現代になっても、ここ真岡郵便電信局の跡地には、ロシア郵便と郵便銀行(Почта России / Почта банк)が入っていることが確認できます。建物の面影はなくても、今も真岡郵便電信局はロシア郵便として形を変えて息づいています。

 

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かつての日ソの激戦地、熊笹峠(ホルムスク峠)

いかがだったでしょうか?

 

日本とロシア(ソ連)がかつて陸地で接していた南樺太には、1905年の樺太上陸から1945年の撤退に至るまでの日本人の痕跡が残っていることをお伝えできたかと思います。

 

今回ご紹介したもの以外にも、日本時代の橋梁や鉄道の跡など、サハリンにはまだまだ数多くの日本時代の痕跡が残されています。本ブログの情報が、皆様それぞれのサハリンの旅を楽しむ一助となりますことを切に願っております。

【サハリン旅行】北サハリン(50度線以北)の見どころを紹介します!

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最北端の町にあったモニュメント(オハ)

 

ロシア最大の島として知られるサハリン島日露戦争末期の樺太占領、シベリア出兵時の保障占領を除き、1875年以来ずっとロシア(ソ連)の施政下にあった50度線以北のサハリンは、日本統治時代を40年間も経験した南部とはまた違った風景が広がっています。

 

ドゥエ(アレクサンドロフスク・サハリンスキーの南にある町)とガスチェッロ(ポロナイスクの南にある町)を結ぶ分類境界線として知られるシュミット線の北側には、概ね日本と異なる植生が広がっていることから、より異国を感じさせる雰囲気となっています。

 

州都ユジノサハリンスクから3泊4日の強行軍で臨んだ北サハリンの旅。しかし、それでも、最北端の町として知られるオハやノグリキ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーなど、北サハリンのほとんどの主要な町を訪れることができました。

 

そんな北サハリンで、ここは良かった、再訪したい!と思えた場所を、ここでは訪問地別に一気に紹介していこうと思います!

 

1. オハ

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震災犠牲者を追悼する教会(オハ)

まずご紹介するのは、サハリン最北端の町オハです。

オハは、もともと先住民族エヴェンキの言葉に由来する名前で、ロシア統治下のもと油田開発の拠点として発展を遂げてきました。オハは、北サハリン最大の町、サハリン全体で見ても4番目に大きい町で、見どころが詰まっています。

 

オハ市内でまず紹介したいのは、市内のランドマークとして知られるロシア正教会ラドネジの聖セルギイ教会(Церковь Сергия Радонежского)です。この教会は、オハ管区の町ネフチェゴルスクで1995年に発生した地震による犠牲者を追悼するために建てられたものです。

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サハリン最北の町オハを散策

教会から南に歩くと見えてくる文化宮殿(Районный Дворец культуры)の敷地内にはレーニン像も建てられています。規模としては州都ユジノサハリンスクのものとは比になりませんが、サハリンの最北の地のレーニン、これは写真に収めておいて損はないと思います。

 

町のなかには、このレーニン像以外にもソ連時代のモニュメントが数多く残されているので、それらを訪ねて散策するのもまた面白いかもしれません。また、市内には、ロシア帝政期の油井「ゾトワの塔(Вышка Зотова)」も残されており必見です。

 

※油井「ゾトワの塔」の位置情報

 

特に何があるというわけでもありませんが、オハのバスターミナルからは、かつて先住民族の定住化のためにつくられたサハリン最北の集落ネクラソフカまでのバスも発着していますので、興味がある方はぜひ足を運んでみて下さい。

2. ネフチェゴルスク

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震災の慰霊碑(ネフチェゴルスク)

次に紹介するのは、オハ管区にあるネフチェゴルスクです。ネフチェゴルスクは、かつては約3000人の住人が暮らしていた北サハリンでは有数の町でした。しかし、直下型地震により町は壊滅、約2000人の尊い命が犠牲となりました。

 

現在、ほとんどの建物が撤去されており、かつての町の中心には震災による犠牲者のための慰霊碑が建設されました。各アパートの跡地には、その建物の番号を記した碑が建てられているほか、町の中心部から離れた場所では、低層階の建物や電線などを中心に地震当時の痕跡がそのままの状態で放置されています。

 

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今も残る震災の爪痕(ネフチェゴルスク)

北サハリンの主要な町、そして州都ユジノサハリンスクには、ネフチェゴルスク地震の慰霊碑や慰霊のための教会が建てられていることからも、この震災がサハリンの人々に与えた衝撃がいかに大きかったかを窺い知ることができます。

 

3. ノグリキ

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震災犠牲者を追悼する教会(ノグリキ)

ノグリキは、北サハリン有数の大河トウィミ川の河口に開けたサハリンで7番目、北サハリンで2番目に大きな町です。町の名前は、かつてこの地にいたニヴフの部族から付けられたもので、今でもニヴフの人々が少なからず暮らしています。

 

私は(往復ともに)町に着いたときにはすでに閉館時間を過ぎていたため訪問は叶いませんでしたが、町の東部には、先住民族ニヴフの詳細な展示などを行っているノグリキ郷土博物館(Краеведческий Музей)が開館しているので、お時間のある方はぜひ訪れて頂きたい場所です。

 

ノグリキ市内の中心部には、こちらもオハと同様にネフチェゴルスク地震の犠牲者を追悼する目的で建てられた聖堂(Церковь Введения во храм Пресвятой Богородицы)があるので、こちらもぜひ見学してみてください。

 

4. アレクサンドロフスク・サハリンスキー

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A.P.チェーホフ歴史文学博物館(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)

ロシア帝政期に、サハリンの拠点として建設された町で、かつてサハリンを訪れたチェーホフが最初に上陸した地としても知られています。今でも北サハリンで3番目に大きな町で、サハリン全体で見ても10番目に大きな町としてその存在感を保っています。

 

町のなかで絶対に訪れてほしいのは、チェーホフが身を寄せていた元囚人ランコバルドの邸宅を改装した博物館「A.P.チェーホフ歴史文学博物館」です。ここには、ルポルタージュサハリン島』の執筆のためにここに滞在したチェーホフの資料の展示などがなされており、必見です。

 

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再建された聖堂(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)

そのほかにも、1891~1893年にかけて建設された聖堂(ソ連時代に解体、ロシア連邦になって再建)を筆頭に、帝政期の歴史的な建物が多くみられることから、ソ連色の強い他のサハリンの町とはまた違った散策を楽しめます。

 

5. ティモフスコエ

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中央広場のレーニン像(ティモフスコエ)

かつて流刑囚たちによって築かれた町で、今では北サハリンと南サハリンの主要な町を結ぶ交通の要衝となり、北サハリンで4番目に大きな町として発展を遂げました。

 

市内には銀色のレーニンがそびえ立つ中央広場があり、そのすぐそばには、この町の辿った歴史を紹介するティモフスコエ郷土博物館(Тымовский Краеведческий Музей)があります。そこまで規模は大きくないものの、この町を訪れた際はぜひ訪れてほしい博物館です。

 

6. オノール

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広場に建てられた記念碑(オノール)

北緯50度線のすぐ北にある集落オノールは、人口1000人ほどと小規模ではあるものの、1892年に建設されたサハリンのなかでも比較的古い歴史的な集落です。ここは、かつて日露戦争末期の樺太の戦い(1905年7月7日~7月31日)において、南サハリンから敗走したロシア軍との間で7月16日に停戦が実現した場所として知られています。

 

※その後、日本軍は当時のサハリン州の州都であったアレクサンドロフスク・サハリンスキーに7月24日になって上陸、ロシア側は町を放棄して撤退し、7月31日になって日本軍に降伏しました。

 

今のオノールにおいて日露戦争当時の痕跡を見ることはできませんが、代わりに、中央広場には第二次世界大戦末期の樺太の戦いでの戦死者の慰霊碑が建てられています。

 

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5月とは思えない風景(オハの南50km地点)

いかがだったでしょうか?

 

サハリン北部は寒冷地であることもあり、町が少ない印象を持たれがちなエリアですが、意外と北部にもそれなりの規模の町があることが本記事でお分かりいただけたと思います。

 

帝政ロシアを感じさせるかつての州都アレクサンドロフスク・サハリンスキーをはじめとする旧国境付近の町を除けば、大半の町が北サハリンの石油資源を開発するために発展してきたという事情もあり、歴史的な見どころはかなり少ない印象を受けます。しかし、北サハリンの魅力は、町だけでなくその美しい自然にこそあります。タイガの森と、その行く先々で待ち受けるダートの道は、手つかずの自然が残る北サハリンならではの原風景であり、旅人の冒険心をくすぐってやみません。

 

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ネフチェゴルスク周辺のダート道

北サハリンの魅力については、私のYouTubeチャンネルでも2回に分けてご紹介していますので、ぜひそちらも併せてご覧ください。

 

サハリンを訪れる人の多くが、ボーダーツーリズムや日本統治時代の痕跡巡りを目的としていることもあり、北サハリンに関する日本人の動画はほとんどないのが現状です。

 

私は主に4WDでドライブを楽しみながら北サハリンを巡っていましたが、コロナ禍のあとに発給されることになっている電子査証(Eビザ)で16日間滞在できますので、サハリン滞在の際は、本ブログの内容や動画の内容を踏まえ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーなど北サハリンも併せて訪れて頂けますと幸いです。