【サハリン旅行】かつての旧国境を訪ねて
ロシア最大の島として知られるサハリン島。かつて先住民族の島だったこの地は、かつての雑居の時代を経て、1875年からロシア領、1905~1945年にかけては北緯50度線以南が日本領として日本が統治していた歴史があります。
ポーツマス条約(1905年)でロシアから獲得した南樺太は外地という扱いとなり(1943年に内地へ編入)、1907年には樺太庁が設置され、豊富な森林資源や海産物、石炭などの本土への供給源として、この島が利用されることとなりました。その結果、内地から多くの労働者とその家族がこの辺境の地へと赴き、終戦間際には約40万人もの人々がこの北方の地に暮らしていました。
日本は日露戦争の際のみならず、シベリア出兵の際にも全島を制圧したため、必ずしも40年間ずっと北緯50度線が両国の境界であり続けたわけではありませんが、国際法上はここが国境としてずっと機能してきました。
サハリン自体が人口の少ない辺境地ということもあり、両国ともサハリンの国境地帯にほとんど兵力を割いていませんでしたが、終戦期には北緯50度線付近が「樺太の戦い」(1945年8月11日~8月25日)の最初の戦場となり、激戦が繰り広げられることとなりました。
本記事では、そんなサハリンの旧国境周辺の見どころの情報を、50度線から南へと順にご紹介します。この地で終戦期に日ソ両陣営が辿ったストーリーを、ぜひ現地で肌で触れてみて下さい。
1. 旧国境の碑(北緯50度線)
まずご紹介するのは、かつての旧国境(日本側)に建てられたソ連の碑です。
日本が築いた国境標石への山道と幹線道路が交わる地点に建てられたこの碑は、日露戦争で奪われた南サハリンを取り戻したというストーリーのもと建てられたもので、ソ連側の、日本に対する当時の心情が色濃く見受けられる碑となっています。
2. 天第三號(北緯50度線)
その旧国境の碑から奥に続く山道を進むと、日本統治時代につくられた国境標石「天第三號」の跡地にたどり着きます。この標石自体は現在、ユジノサハリンスクにあるサハリン州郷土博物館で展示されており、現地には台座部分しか残っていません。しかし、この地が40年ものあいだ日本の施政下にあった痕跡を生で見ることができます。
3. 半田陣地(旧国境付近)
旧国境の碑から幹線道路を南下すると、まずはロチノ(半田)の右手にトーチカの跡が見えます。日本が築いたこのトーチカ群は、樺太の戦いの初期に戦場となった場所です。
旧国境から中央軍道を下った最前線にあったここ半田を守っていた歩兵と国境警備隊の約100名は、8月11日の午前5時頃から翌日にかけての戦闘で玉砕、その際のソ連の猛攻の跡は半田のトーチカ群に今も深く刻み込まれています。
4. 日ソ平和友好の碑
樺太の戦いの最初の激戦地となった半田(ロチノ)と古屯(ポベジノ)の間の幹線道路上に建てられた記念碑です。大戦時の対立を乗り越え、新しい日ソ平和友好の時代を迎えようとの思いを込めて建てられたものです。
※背景
ソ連は、1945年4月のヤルタ会談での極東密約で、「ドイツへの戦勝から2か月から3か月後」に実施されることとなった対日参戦の見返りに「サハリン南部と周辺島嶼部の返還」「千島列島の引き渡し」を米英から約束されていたソ連は、独ソ戦の勝利から3か月後にあたる8月9日、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告しました。ソ連を通じた日米仲介を唯一の頼みとしていた日本は、ここで無条件降伏か一億総玉砕かという究極の二択を迫られることになり、二度の原爆投下と相まって、昭和天皇のご聖断により無条件降伏する運びとなりました。
戦後に東西冷戦に突入すると、日ソ間の領土返還交渉が米軍基地問題へと飛び火し、アメリカから二島返還ではなく四島返還を要求するよう要請された日本と、米軍による北方領土の軍事基地化を恐れたソ連との間では、領土確定も平和条約締結もできぬまま、ただただ時が流れる状態に陥ってしまいました。
こうした状況のなか、日ソの平和友好条約締結への願いを込め、かつて激戦地となったサハリンのポベジノ(古屯)北方に、両国の友好を願う碑が建てられました。
この日ソ平和友好の碑から幹線道路の反対側を見ると、かつての戦闘で破壊された日本軍のトーチカの跡が今も残されています。
5. ソ連軍戦没者墓地(ポベジノ)
ポベジノの町の北郊外には、ソ連時代に建設された戦没者慰霊碑と共同墓地があります。ここポベジノ(古屯)では、歩兵第125連隊の第一大隊が侵攻してきたソ連軍と交戦、激戦が繰り広げられました。この地で日本軍の歩兵第125連隊の第一大隊がほぼ壊滅し、8月18日になってソ連軍と停戦しました。
この激戦地で亡くなったソ連兵たちを追悼して建てられたこの慰霊碑の前には、戦死者の名前が刻まれた墓碑がずらりと並んでいます。
6. 樺太・千島戦没者慰霊碑(ポベジノ)
大戦末期の樺太(南サハリン)と千島列島(クリル列島)での戦闘によって犠牲となった人々を追悼するため、ソ連軍戦没者墓地の奥に日本によって建てられたものです。樺太の戦いや占守島の戦いなど、日本とソ連の間では幾多の戦いが繰り広げられ、多くの人命が失われました。
日本軍とソ連軍の双方の慰霊碑が隣接する数少ない場所で、日ソ双方にとって重要な戦いであったことがここからも窺い知ることができます。
ちなみに、戦没者慰霊碑からさらに奥の道に入ると、弾薬庫なども見ることができますので、こちらも併せて見学してみることをオススメします。
7. 南サハリン解放記念碑(ポベジノ)
ポベジノの町内に建てられた記念碑です。この「ポベジノ」自体が対日戦の勝利を記念してつけられた名前で、この地での激戦を制したことにどれだけソ連側が思い入れを持っていたかを強く感じられます。
スターリンが対日参戦の条件として真っ先に提示したのが「南サハリンの返還」だったことからも、日本に「奪われた」南半分の領土を奪還したいという思いが強くあったこと、そしてそのソ連側のこの地への思い入れがここ「解放記念碑」に表れていることなどを踏まえると、サハリン訪問時には絶対に訪れておきたい場所のひとつです。
8. ポベジノ駅(ポベジノ)
日ソの緊張の高まりを受け、1943年に軍用列車の停車駅としてつくられた古屯駅に由来する鉄道駅です。開業当時は日本最北端の鉄道駅であり、樺太の戦いにおいては、その戦略的な重要性もあり、この駅周辺でも日ソ両軍が交戦しました(8月15日)。
今でも南北サハリンを結ぶ鉄道駅として機能しており、南部のユジノサハリンスクやポロナイスクと北部のノグリキを結ぶ鉄道の停車駅となっています。
9. レオニド・スミルヌイフ像(スミルヌイフ)
日本統治時代には気屯と呼ばれていたこの地には、1943年から1945年にかけて、日本軍の歩兵第125連隊が駐屯していました。樺太の戦いの結果、ソ連が南サハリンを獲得したのち、古屯(現ポベジノ)での戦いで戦死した大隊長のレオニド・スミルヌイフに因んでスミルヌイフと改称されました。町のなかには、彼の功績を記念して銅像が建てられています。
ちなみに、市街にある公園には、他にも対日戦で使われたと思われる戦車のモニュメントもあり、こちらも町のランドマークとして親しまれています。
10. アントン・ブユクリ像(ブユクリ)
日本統治時代には保恵と呼ばれていたこの地は、樺太の戦いの結果、ソ連が南サハリンを獲得したのち、古屯(現ポベジノ)での戦いで戦死した上級軍曹のアントン・ブユクリに因んでブユクリと改称されました。村の庁舎の前には、彼の功績を記念して銅像が建てられています。
11. 戦没者記念碑(レオニドヴォ)
日本統治時代に上敷香と呼ばれたこの地には、樺太の戦い当時、中央軍道の日本軍主力部隊が駐屯していました。8月17日に上敷香からの住民退避が完了すると、日本軍による放火やソ連軍機による爆撃によって町は消滅、のちにソ連当局が、対日戦の英雄レオニド・スミルヌイフに因んだ集落レオニドヴォとして再興しました。
古屯(ポベジノ)での戦いで戦死した大隊長レオニド・スミルヌイフと上級軍曹アントン・ブユクリは、ソ連当局によってつくられた戦没者記念碑の敷地内で今も安らかに眠っています(正面左がスミルヌイフ、右がブユクリ)。
いかがだったでしょうか。
旧国境からポロナイスク(敷香)の間に位置するかつての中央軍道の一帯には、多くの戦跡が残されています。日本史であまり取り上げられない樺太の戦いについて考える良い機会になると思いますので、サハリンをご旅行される際は、ぜひポロナイスクから日帰りなどで訪れてみて下さい!
こちらの動画で旧国境付近の見どころを映像で紹介しています。
ぜひ併せてチェックして頂けると幸いです。
【戦後世代に伝えたい】樺太に残った日本人に会いに行きました。
ロシア最大の島として知られるサハリン島。先住民族の島だったこの地に日本人とロシア人が住み着き、その後、雑居の期間を経て、1875年にロシア領、1905~1945年にかけては北緯50度線以南が日本領、そして1945年8月から全島をソ連が支配した、そんな歴史的経緯を辿った島です。
そんなサハリンには、実は、戦後に引揚船に乗らずに残った日本人が今も少数ながら暮らしています。戦後史に葬り去られた在樺日本人の歴史。実際に残った日本人の話を直接聞くため、私はアポイントを日本で済ませ、サハリン州の州都ユジノサハリンスク にあるサハリン日本人会を訪れることにしました。
日本統治時代の南樺太では、製紙工場や炭鉱などができ、森林や炭鉱での労働などのため、内地から多くの日本人が移住しました。その結果、1906年にはわずか1万2000人ほどだった日本人の人口は、1933年には30万人を超えるまでに膨れ上がりました。
最も近い海外、ユジノサハリンスク
世界的に見ると秘境という扱いのサハリンですが、隣接する日本からはなんと直行便も飛んでいます。2019年5月の訪問時には、オーロラ(サハリン航空とウラジオストク航空が合併してできた航空会社)が成田(東京)と新千歳(札幌)に就航しており、非常にアクセスがしやすい状況でした。ロシアの電子査証を利用しての8日間の訪問で、その2日目に白畑さんとのアポイントメントを入れて訪問することにしました。
成田国際空港からユジノサハリンスクの飛行時間は約2時間。ウラジオストクやソウル、釜山まで約2時間半ということを考えると、東京から最も近い海外ということになります。沖縄の那覇空港までも約3時間なので、そのアクセスの良さが実感いただけると思います。
サハリンに到着!
宗谷岬 を眼下に見下ろして約10分。サハリン最南端のクリリオン岬が見えたと思えば、その時点で既に機体はかなり高度を下げていました。そこからコルサコフを右手に見ながら機体はさらに降下を続け、市内南部にあるユジノサハリンスク国際空港へと着陸しました。
日本とサハリン州 の時差は+2時間。日本ではまだ夕方の午後7時だとしても、サハリンでは既に午後9時となっています。入国審査を済ませ、市内へとタクシーで出ると、そのときには既に午後10時になろうとしていました。
その日はナイトクラブやバーなどを除けば店は既に閉まっており、特にすることもないのでそのままホテルにチェックイン。サハリン到着を日本人会に報告し、翌日の訪問に備えて就寝することにしました。
サハリン日本人会へ訪問!
ユジノサハリンスク滞在2日目、市内でレンタカーを借り、車で日本人会に向かいました。そこで出迎えて下さったのが、当時のサハリン日本人会の会長でいらっしゃった白畑正義さんでした。白畑さんは、1939年にフボストボ(当時の内砂/ないしゃ)で生まれ、樺太 の戦い(1945年8月)のあともサハリンに留まった在樺日本人のうちの1人です。
白畑さんは終戦 時に幼かったこともあり、その記憶のほとんどがソ連 時代以降のもので、日本時代のことは覚えていらっしゃらなかったため、生い立ちやソ連時代のお話を中心にお話を伺いました。
そのお話は動画内で紹介していますので、ぜひそちらをご覧ください。
【動画】白畑正義さんとのインタビュー動画
今も各地で暮らす日本人たち
1905年から1945年にかけての日本統治時代、当時の政府が辺境開拓のために南樺太 への移住政策を促進したこともあり、1906年に1万2000人ほどだった日本人の人口は、1933年には30万人を超えるまでに膨れ上がりました。そして、その多くが戦後に日本へと引揚船で送還されたのです。
白畑さんを含め、少なからぬ日本人(特に在樺コリアンと結婚した日本人女性)が、日本への帰還を諦めてそのままサハリンに残留し、のちにソ連政府から国籍(ソ連崩壊後はロシア国籍)を付与されて、ロシア人などソ連構成国の国民と同じ扱いを受けて暮らしたのでした。
南サハリンの主要な町であるユジノサハリンスク(豊原)、ポロナイスク(敷香)、ウグレゴルスク(恵須取)といった場所では、今も残留日本人やその子孫が暮らしています。南部では、ファミリーネームに日本名を持つ方と出くわすことがあります。その多くが、日本統治時代に「土人教育所」オタスの杜で教育を受け、日本名を付与されていた少数民族か、戦後も日本に帰還せずに残った在樺日本人のどちらかに関係しています。
永住帰国という選択
サハリン日本人会の会員の多くが、高齢による高度医療の必要性などを理由に慣れない日本へと移住した1990年代~2010年代。白畑さんは、2019年5月当時はサハリンで骨を埋める気持ちでいたことが、私のインタビューからも伺えます。
人生の大半を過ごしたトマリから、定年になって州都ユジノサハリンスクに出てきて、そしてその後に日本人会の会長まで務められた白畑さんにとって、永住帰国というかたちで、最愛の妻が眠る地ユジノサハリンスクを離れ、人生で一度も過ごしたことのない日本本土に永住する決意をされたことは、かなりの苦渋の選択であったように思います。
戦後日本の家庭に生まれた私には、愛する故郷、そして愛するご家族の多くと離れる選択をされた白畑さんの、そのお気持ちを推し量ることなど到底できませんが、それでも、「愛する地サハリンで骨を埋めるべきか、高度な治療で長く生きるために日本に行くべきか」という究極の選択を、在樺日本人の方々が今も迫られているということは、戦後世代の一員として、我々はきちんと知っておく必要があるように思います。
質問やご意見はコメント欄までお寄せください。私のブログは旅ブログですので、サハリン(樺太)にまつわる政治的なご発言についてはお控えいただきたく、よろしくお願い申し上げます。
シリア見聞録 (2019)
(注)この記事を書いている私は今レバノンの首都ベイルートにいます。
*ウマイヤド・モスク(715年の建設)
つい先日シリアを離れたばかりの私。11日間に及んだシリア訪問について、Q&A形式で今の率直な気持ちを共有したいと思います。
Q. なぜシリアを訪問したのか
(1)治安面で大幅な改善がみられたこと、(2)シリア政府による観光客受け入れが再開したこと、が主な理由となります。(1)については次項にて詳しく説明しますが、主要な観光地での安全が確保されたことで、2018年11月には観光ビザ制度が大幅に緩和され、比較的自由に旅行ができるようになりました。
アラブ諸国で唯一行けていなかったシリアを簡単に訪問できるようになったと知り、2019年1月後半にコンタクトを取り、2月中のシリア訪問を実現しました。
Q. シリアは危険ではないのか
*夜のダマスカス
おそらく日本では、2012年の日本人ジャーナリスト射殺事件、2015年の日本人人質事件などもあり、シリア=危険地帯というイメージが極めて強いように思います。事実、2012〜2016年ごろはシリアの大半の地域が本当に危険地帯であり、国内のシリア人のほとんどが死に直面していた時期でもあります。
しかし、2016年のシリア政府によるアレッポ奪還を皮切りに状況は変化し始めました。2018年2月にシリア首都圏の反体制派の最後の拠点ドゥーマの奪還に代表されるように、2018年までにシリアのアラブ人地域の大半がシリア政府により奪還されています。
*2019年1月現在のシリア勢力図
赤がシリア政府軍、黄色がクルド人主体のシリア民主軍、緑がアルカイダ系のヌスラ戦線を主体とする反体制派の支配地域
こうした状況の中で政府側が支配する地域を旅行した私は、国内の治安維持がかなり機能しているという印象を受けました。主要都市では深夜でも男女関係なく人通りがありましたし、バーやカフェも深夜まで営業しているところが多かったです。いわゆる「戦地」という響きからはかけ離れた世界がそこにはありました。
Q. どこを訪れたのか
*キリスト教の巡礼地セイドナヤ
今回訪問したのは、(1)ダマスカス首都圏、(2)セイドナヤ、(3)マアルーラ、(4)アレッポ、(5)ハマー、(6)マスヤーフ、(7)ホムス、(8)クラック・デ・シュヴァリエ一帯、(9)ラタキア、(10)タルトゥース、というシリア西部の大半の主要な観光地となります。これらの訪問地においては特にトラブルもなく自由に観光ができました。
また、ダマスカス、アレッポ、ラタキア、タルトゥースには数多くの友人がいたことから、これらの都市では彼ら/彼女らとの時間も出来る限り取りながら行動しました。この点については、私を全面的にサポートして自由時間の確保に協力してくれたガイドに心から感謝しています。
Q. シリアで何に一番感動した?
*デート中のカップル
何と言っても多様性溢れる民族・宗教・文化です。これはコーカサス地方、旧ユーゴスラヴィアなどの魅力にも置き換えられることかもしれません。シリアでは、スンニ派、アラウィー派(シーア派)、イスマーイール派(シーア派)、十二イマーム派(シーア派)、ドゥルーズ派、マロン派キリスト教徒、正教徒、ユダヤ教徒、アルメニア人、クルド人など、本当に多くの人々が今日まで共存しながら1つの国の中に生きてきました。
これらのコミュニティのうちユダヤ教徒の多くは国を去ってしまいましたが、それでもなおシリアが多様性溢れる国であることには変わりませんし、私はこの魅力を強調し続けたいと思います。
Q. シリアに来て良かったことは?
*ハマーの水車
ずっと見たかったシリアの歴史的な見所をこの目で見られたことです。ウマイヤド・モスク、マアルーラ、アレッポ城、ハマーの水車(ノーリア)、クラック・デ・シュヴァリエ、の5ヶ所は特に行きたくてたまらなかった場所だったので、実際にこの目で見られて本当に良かったです。特にマアルーラの聖ゲオルグ修道院でアラム語による礼拝に立ち会ったことは最高の思い出です。
最後に
*ラタキアで見た夕陽
2011年にアラブ世界の多くの国に広がった「アラブの春」はシリアに大きな爪痕を残しました。破壊と殺戮の限りを尽くしたシリア内戦は約40万もの尊い人命を奪ったほか、国民の半分以上の約1000万もの人々から故郷を奪うという悲惨なものとなりました。
2019年2月現在、シリアの大半の地域に平和が戻り、一般人のシリア旅行は非常に簡単なものとなりましたが、今この時も国内外で苦しんでいるシリア人たちがいるということを頭にとどめ、これからも情報発信に努めていきたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。
質問やご意見はコメント欄までお寄せください。私のブログは旅ブログであるため、政治的なご発言についてはお控えいただきたく、よろしくお願い申し上げます。
【クウェート】秘められたダイビング大国
ダイバーの楽園
アラブ諸国のダイビングスポットと言えば、多くの方が浮かべるのがエジプトの美しい紅海リゾートでのダイビングでしょう。
シャルムエルシェイクやハルガダなど世界的に有名なダイビングスポットを持つエジプトは、そのためだけに訪れるダイバーもいるぐらい人気の高いダイビング大国です。私にとってもハルガダは特に満足度の高い場所でした。
でも、アラブのダイビングの魅力は、決してエジプト1か国だけで語れるものではありません。
今回は、アラブ諸国のなかでも特にダイビングが盛んにおこなわれている国のひとつ、クウェートを取り上げてみようと思います。
カールーフ島
クウェートでも代表的なダイビングスポットが、クウェートの島々でも最南端に位置するカールーフ島です。クウェートが誇る大規模なサンゴ礁が広がり、また、透明度も高いスポットとなります。
また、この島では、バラクーダや大型アジなどの大物も見ることができるので、そのぶん満足度も高いと思います。
クッバール島
ダイバーのみならず、シュノーケルだけ楽しみたいという方でも満喫できるスポットです。お子様連れの方には特にオススメしたい場所です。
カールーフ島同様、一面にサンゴ礁が広がっていますが、都市部から近く、時によって透明度が急激に落ちる場合もあります。しかし、この島のビーチはクウェート屈指の美しさで知られており、いろんな楽しみ方ができるのもまた魅力的かもしれません。
ファイヴ・マイルズ
世界各地で人気を集める沈船ダイブも、ここクウェートでの楽しみのひとつです。石油タンカーを筆頭に海の交通の要所として広く知られるペルシャ湾では、今も多くの沈船が見られますが、ダイバーとして訪れられる浅瀬にあるのはクウェートでもここだけ。
ナイトダイブではウミエラという変わったサンゴの一種が見られますが、ナイトダイブまでしてみる代物ではないかもしれません。。
クウェートには、他にもサメのスポットや、石油パイプラインのスポットなどもあるので、興味にあわせて潜るスポットを決めてみてください!
あと、他のマリンスポーツとしては釣りもけっこう人気で、糸だけで釣りをするツワモノも結構います...。GT(ロウニンアジ)やサメなどの巨大魚も釣れるので、こちらも是非試してみてほしいです。
いかがでしたか?
少しでもこの記事が参考になれば嬉しいです!
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【2019年1月時点】決定版!~アラブ諸国のビザ・入国スタンプ情報~
ブログを継続してまだ一週間ですが、もう9800PVを突破しました。本当にありがとうございます。
ノリに乗っているハリド日記、今日はもう完全に飛ばしちゃいますよ...!
というわけで・・・
アラブ諸国の入国方法の決定版、出しちゃいます。
これさえあれば入国に対する不安感も割と解消されるでしょう...!
そんな皆さんにどんどん広げていってほしいです。
特に、イエメンとかイラクとかリビアとか、最新の渡航情報が全然ブログに出てこないし、そろそろ誰か書いてくれ・・・と思っていたところでもありました。
あと、アラブが怖いって思ってる女性陣のためにも、ビザなしで簡単に行ける観光向きの国についてもちゃんと公平に書いてます。
アラブを盛り上げるためにも、皆さん、本気で拡散よろしくです。
というわけで、アラブ諸国の定義から再度やり直しますが、
ハリド的な定義は「主要民族がアラブ人の国」という区分になってます。アラブ連盟加盟国という政治的な区分とは異なっているのでご理解ください。それにマッチするのは以下の19か国となっております。
アラブ首長国連邦、アルジェリア民主人民共和国、イエメン共和国、イラク共和国、エジプト・アラブ共和国、オマーン国、カタール国、クウェート国、サウジアラビア王国、シリア・アラブ共和国、スーダン共和国、チュニジア共和国、バーレーン王国、パレスチナ国、モーリタニア・イスラム共和国、モロッコ王国、ヨルダン・ハシェミット王国、リビア国、レバノン共和国
では、これから各国の状況を見ていきましょう!
(1)アラブ首長国連邦
首都アブダビや最大都市ドバイなどの見どころがあるアラブ首長国連邦(UAE)。アラブ諸国のなかでも最も観光客にやさしい国のひとつで、私がこれまでに最も多く渡航しているアラブ国家でもあります。
そんなUAEへの入国に際しては、日本国パスポート保有者は査証が不要です。まあ、当然ではありますが・・・。
入国時に以下のスタンプが押されます。入国スタンプは30日間有効です。
(2)アルジェリア
2019年現在、アラブ世界およびアフリカ大陸で最大の国となっているアルジェリア。世界遺産も極めて多く、国内のあちこちに見所が点在していますが、残念ながら入国には居住国での査証の取得が必要です。
観光査証に必要な書類は以下になります。
・全行程を記入した日程表(英語またはフランス語で記入)
⇒私はMicrosoft Wordで記入(英語)
・往復航空券の予約証明書(2部)
⇒陸路で出入国をする方も、必ず航空券の予約が必要です。
・全日程の宿泊証明書(1部)
⇒私はBooking.comの予約票をコピーして提出しました。
・申請書(2部)
⇒大手ツアー会社での入国ならまず問題ありませんが、個人での訪問の場合、やや面倒でした。査証の取得時、現地の友人からの招待を受けている旨を伝えると、スムーズに査証が取得できます。
・申請料:3600円
申請さえ通れば、2営業日で査証が受領できます。観光ビザは通常30日間有効です。
※サハラ・アラブ民主共和国(ポリサリオ戦線)が実効支配する西サハラ(通称:解放区)へ渡航する際は、その拠点となっているアルジェリア領内の町ティンドゥーフに行く必要があるため、まずはアルジェリアへの入国が必要です。
(3)イエメン
かつて幸福のアラビアと呼ばれた乳香の国、イエメン。アラブ民族発祥の地としても知られるこの国は、古くからの伝統が今も息づく魅力あふれる国です。私がアラブ文化に興味を持つきっかけとなったのもこの国でした。
そんなイエメンですが、入国には査証が必要です。
観光査証に必要な手続きは以下になります。
・旅行会社を通じて査証を取得(申請料:123米国ドル)
⇒ツアー申込ののち、2~3営業日で査証のコピーが届きます。その後、航空券を予約して入国するという手順です。
私が渡航した2014年時点では、大使館で査証を取得する必要がありました。2019年1月現在は、実際に大使館に赴いて取得する必要はありません。
【クウェート】3年連続訪問した私がオススメする見所まとめ
未知の国クウェート
今日は、あまり日本ではなじみのない国、クウェート国の話題です。
個人的に友達が多く、クウェートという国が大好きなこともありますが、UAEやカタールが注目されるなか、いまだ国家として観光産業に力を入れていないことに少し残念な感情を覚えています。
実はこの国、四国とほぼ同じ面積の小国ながら、湾岸諸国のなかでは美食の国として評判が高く、見どころも国内各所に点在しています。
空港でパパッとビザが取れる国なので、是非多くの人に訪れてほしいという気持ちを込めつつ、この国の代表的な見どころ10か所をご紹介します!
1. クウェート・タワー
クウェートについてあまり詳しくないという方も、このタワーに見覚えはあるかと思います。高さ187m、クウェートのシンボルとして世界的に有名なこの3基のタワーは、1979年にスウェーデンの建設会社によって建てられたものです。タワーには回転展望台も付随しており、美しい海と街並みを眺めながら食事を楽しむことができます。
2. クッバール島
クウェートの沖合に浮かぶクッバール島は、湾岸諸国でも屈指の美しいビーチで知られるほか、ダイビングの名所としても知られています。ここについてはダイビングに関する別の記事で改めて紹介予定です!島に行くには、ダイビングショップあるいは旅行会社にコンタクトをとる必要があります。
3. クウェート解放塔
湾岸戦争から間もない1993年に竣工した高さ372mの塔で、フセイン政権下のイラクからのクウェート解放のシンボルとして知られています。もともと通信塔という名前になる予定だったのですが、イラクによるクウェート侵攻(1990年)以降、建設が一時中断、その後に建設が再開されたという歴史から、今の名前に変わりました。表向き非公開にはなっているものの、AWARE CENTERのホームページからコンタクトをとり、観覧したい旨を伝えると訪問が可能です。
4. レッド・フォート
1897年にクウェートの指導者ムバーラク首長が建設した城塞です。クウェートシティ北方にある町ジャハラで唯一ともいえる見どころですが、1920年、この城を舞台に、湾岸諸国の趨勢を左右する戦い「ジャハラの戦い」が起こっています。クウェート側がサウード家と協力関係にあった民兵組織イフワーンの猛攻を防ぎ切り、その結果、クウェートはサウード家の勢力圏に入ることを免れたのでした。
5. アル=クライン殉教者博物館
クウェートシティの南郊外には、イラクによるクウェート占領期(1990~1991年)のレジスタンス運動で使用された当時の建物が保存されています。この建物では、占領軍に対し立ち上がった19名の戦闘員のうち12名が戦死しており、当時クウェート各地で起こったレジスタンス運動の象徴となっています。
6. スーク・ムバラキーヤ
オスマン帝国時代から商人の町として栄えてきたクウェートシティでも最大のスーク(市場)です。クウェートシティの人々の昔ながらの生活を感じることのできる場所として人気が高く、また、一角にはクウェート料理を提供するレストランも軒を連ねています。湾岸戦争で被害を受けたものの、その後綺麗に修復され、かつての賑わいを取り戻しています。クウェートシティ最古の郵便局(Kiosk)も残されており必見です。
7. サドゥ・ハウス
湾岸諸国の伝統的な手芸、サドゥの保護のために作られた博物館です。近代化が進み、ベドウィン(遊牧民)の伝統文化が失われつつあるなか、その貴重な遺産を守ろうと、クウェートのサドゥ協会が1980年に設立しました。2019年1月現在、300名ほどの職人がここに在籍しており、クウェートシティ市内でも特に人気のある観光スポットとなっています。
8. グランドモスク
1986年に完成したクウェート最大のモスクで、1万人以上を収容することができます。他のアラビア半島のグランドモスク同様、異教徒にも開放されており、クウェートの平日にあたる日曜から木曜に限り、午前と午後にガイド付きで内部を見学することができます。その美しい内装には目を見張るに違いありません。
9. ディクソン邸博物館
イギリスの外交官で、クウェート石油会社の創設にも関わったH.R.P.ディクソンが1929~1959年にかけて生活を送った邸宅です。ディクソンの妻、バイオレット夫人は、クウェートの独立(1961年)後も、イラクによるクウェート侵攻が起こるまでクウェートを離れることはありませんでした。バイオレット夫人は、湾岸戦争によるクウェート解放を待たずして、避難先のイギリスでこの世を去っています。
10. ファイラカ島
この島は、ギリシャ系王朝のセレウコス朝が築いたイカロス神殿をはじめとする古代遺跡の宝庫として知られているほか、湾岸戦争の主戦場のひとつとなった場所でもあります。島内の移動には許可証が必要であるため、旅行会社に事前にコンタクトをとる必要があります。面倒ではありますが、クウェートの長い歴史が詰まっているため、私としては最もオススメしたい観光地です。
今回は10か所の紹介ということですが、もちろんこれは私が主観的に選んだものであり、他にも当然見どころはたくさんあります。
この国、見どころが点在しているうえに、まだまだ観光地化が進んでいるわけでもないので、クウェート人の友人がいない場合、移動にしんどい部分があるかもしれません。
そもそもバックパッカーが行くような国でもないのですが、あまり人が行かない国に行きたいという方にとって、少しでも参考になればうれしいです。
【映画】『アラビアのロレンス』ゆかりの地まとめ
20世紀が誇る不朽の名作
今年(2019年)の1月8日、全米撮影監督協会(ASC)が発表した20世紀最高の映画作品に『アラビアのロレンス』が選出されました。
第一次世界大戦の時代、オスマン帝国と戦ったイギリス軍の諜報部員だったロレンス(T. E. Lawrebce)。彼のアラビアでの活躍を描いた本作品の舞台、およびロケ地をご紹介します!
1. ロレンス邸(サウジアラビア)
サウジアラビア西部の町ヤンブー(ينبع)に残るロレンスの邸宅です。
イギリス軍からアラブ反乱軍への補給はここから行われ、ロレンスもここを拠点にシリア方面への進軍を始めました。
ロレンスの邸宅の周辺の歴史的家屋は廃屋として放置されていますが、ここロレンス邸だけは修復工事が行われ、観光客向けに整備されています。
ロレンスとアラブ反乱軍が最初にオスマン帝国への工作活動として行ったのが、ヒジャーズ鉄道の爆破工作でした。
サウジアラビアの聖地メディナと世界遺産マダイン・サーレハの中間地点に位置する旧鉄道駅「ハディーヤ」(هدية)一帯には、脱線した鉄道が今も手つかずのまま残されており、非常にフォトジェニックな場所となっています。
シリアの首都ダマスカスには、ヒジャーズ鉄道のダマスカス駅の駅舎が今も残されているので、こちらも必見です。
3. ワディ・ラム(ヨルダン)
ヨルダン南部に広がる砂漠の谷ワディ・ラム。ここはアラビアのロレンスのロケ地として最もよく取り上げられる場所です。
本作品を観たことのある方の中には、アラブ人の反乱軍を率いて砂漠をかけめぐるその雄姿に憧れた方もきっと多いはず。
ロケに使われたその雄大な大地のなか、ロレンスと同じようにラクダに乗って砂漠を駆け巡ることができます。
4. アカバ要塞(ヨルダン)
アカバ要塞は、ローレンス率いるアラブ人部隊がアカバの戦い(1917年)でオスマン帝国軍から奪取した要塞です。
実際のロケはスペインにつくられたセットの中で撮影されたようです。本物のアカバとはちょっと雰囲気が違うのですが、ロレンスが実際に攻め入った要塞を見るのも粋なものです。
このエリアに掲げられている巨大な旗はアラブ反乱旗で、ロレンスと協力した現在のヨルダン王家ハーシム家が用いた象徴的な旗となっています。他の町では決して見ることのできない光景ですので、是非写真に収めてみてください。
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