アラブ世界の地震にまつわるお話。
阪神淡路大震災から24年
あれから24年が経ちました。
改めて、犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
当時まだ0歳だったため、記憶は全く残っていないものの、生まれてすぐの私にとって、この震災は非常にインパクトのある出来事だったようです。
というのも、幼稚園への入園以前の唯一の記憶が、物心つく前に見た震災の夢でした。被災時はまだ幼かったのですが、幼いなりに何か感じるものがあったのだと思います。
さて、そんな阪神淡路大震災から24年がたった今、改めて日本の地震の多さに辟易する自分ではありますが、果たしてアラブ諸国ではどうなのか。。
そう思って調べてみると、過去に幾度も大地震を経験している地震地帯がありました。
アラブ世界最大の地震地帯
それは、シリア地方(歴史的シリア)です。
現在のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ(イスラエル国の領域を含む)一帯を指すシリア地方は、アラブ諸国でも特に有名な地震地帯となっています。調べてみると、死者数万人規模の大地震が何度も発生しているようです。
特に、551年のベイルート地震、847年のダマスカス地震、1138年のアレッポ地震、1202年のシリア地震での被害は特に甚大で、これらの地震により多くの古代遺跡も地震や津波の被害に遭い、喪失しています。
レバノン沿岸部の古代遺跡や、シリア地方各所のローマ遺跡などから当時の栄華を感じにくいのは、津波により甚大な被害を受け、当時の面影があまり残っていないからだと言えるでしょう。
しかし、これだけの地震地帯にありながら、レバノン有数のローマ遺跡バールベックにあるバッカス神殿は今も建築当時とほぼ変わらぬ外観を残し続けています。その建築技術には感嘆せずにはいられません。。
21世紀の大地震発生地
20世紀、シリア地方では、1993年に発生したM7.3のアカバ湾地震を最後に大地震は発生していません。
しかし、20世紀以降、シリア地方以外にも、アルジェリア、イエメン、イラク、エジプト、モロッコ、リビアなど、多くの国で大規模な地震が発生しています。
1. ブメルデス地震(2003年、M6.8)
2. イラン・イラク地震(2017年、M7.3)※震源地はイラン側
特に、イランとイラクの国境地帯で発生したM7.3の大地震は、イラク領内のクルド人の町ハラブジャを中心に多くの被害をもたらしました。1734年にクルド人名家のジャーフ家により建てられたシェルワナ宮殿も無残に破壊されてしまいました。
記憶の風化は歴史の風化
ここまで記事を書いてきて、私が感じたことを書きたいと思います。
847年のダマスカス地震のあと、被災したウマイヤドモスクが修復されました。
1138年のアレッポ地震のあと、被災したアレッポ城の外壁のみが修復されました。
しかし、ここで注目したいのが、その時代に価値があるとみなされたもの以外の遺産は、ことごとく無視されてきたという点です。
例えば、551年のベイルート地震では、大規模な津波が発生し、沿岸部のフェニキア人の時代からの遺構は完全に破壊されてしまいました。しかし、ビザンツ帝国のギリシャ人たちはそれを修復することなく放置しました。
また、中世に度重なる地震で被害を受けたパルミラのローマ建築も、いかなるイスラーム王朝からの修復も受けることなく放置され続けました(バアルを祀ったベル神殿は2015年にISにより破壊)。
このように、地震は、人々の日常を奪うにとどまらず、ときの支配階級から利用価値がないと判断された歴史的遺物をも奪い、その地の歴史もろとも風化させてしまうのです。
私はこれまで旅する中で、世界各地に残る記憶の断片を訪ねてきました。世界四大文明の遺産や、地中海世界一帯に残るローマ時代の遺構、そして、様々な時代の人々の生活の記憶・・・。
こうした歴史の記憶たる遺産・遺物は、まさに時代の生き証人です。私は旅人の端くれとして、古代文明の発祥から現代にまで至る歴史の流れを、これからもこの目に焼き付けていきたい、そう思う次第です。
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【サウジアラビア】個人的オススメスポットを10か所まとめてみました
話題の国を紐解く
いま、世界的にサウジアラビアのニュースが盛り上がっていますね。。
サウジアラビアは読者の方にはあまり馴染みのない国かもしれませんが、アラブ諸国ではエジプトと並ぶ大国です。日本ともかなり密接なつながりがあるので、もう少し注目度が高くなってほしいと思っていたところでした。
実はこのサウジアラビア、旅行という観点に立つと、日本人にとって最も入国が困難な国のひとつとされていて、私も実際に入国にかなり苦労してきたという過去を持っています。アラビア半島の国をコンプリートする最大のハードルとして立ちふさがっていました。
これだけハードルの高かったサウジアラビア入国ですが、私は2017年、ついに商用ビザでのサウジアラビア観光を実現し、長年の悲願を叶えることができました・・・!
数少ないサウジアラビアへの旅行経験者の一人として、この際きちんとこの国の見どころを紹介しておいたほうがいいと思うので、私が独断で選ぶオススメスポットを一挙に紹介しようと思います!
その前に、現状のサウジアラビアの入国制度を紹介したいと思います。私が訪問した2017年当時とは状況が変わっていますので、その点を触れておく必要があると思うので。。。
ビザ制度の緩和が進む
2019年1月現在、サウジアラビア政府は、自国のスポーツ協会「Sharek(شارك)」が協力するイベントのチケットを入手した方に対する電子ビザの発給を開始しています。サウジアラビア政府は、ムハンマド皇太子の主導のもと、国家改造プロジェクト「Vision 2030」の一環として観光産業の活性化を目指しているのです。
※2019年1月現在、2018年12月13~15日のフォーミュラE(会場:ディルイーヤ)、2019年1月16日のスーペルコッパ・イタリアーナ(会場:ジェッダ)のチケットを購入した方を対象とする電子ビザの発給を確認しています。
この新しいビザ制度にはSharek International Event Visa(SIEV)という長ったらしい名前が付けられていますが、このビザさえあればサウジアラビア国内での自由旅行が可能なことを考えると、事実的に観光ビザのようなものと言えるでしょう。
サウジアラビアのSharekビザ(SIEV)概要
滞在日数:30日間
申請費用:640サウジ・リヤル(20,000円弱)
取得方法:Sharekホームページから。
無料イベントの申し込みではSharekビザの取得はできません。
※現在、サウジアラビア政府はSharekのイベント参加者以外に対しても電子ビザを解禁する動きを見せています。
このような時代の流れですので、サウジアラビア政府の観光セクターにお勤めの方々の価値観に合ったものかは不明ではありますが、日本からのサウジアラビア訪問者の端くれとして、ぜひ旅の参考にしていただけるとありがたいです。
1. 砂漠の造形美
日本の多くの方がイメージする砂漠は、鳥取砂丘と同じように、細かい砂でできた砂丘が一面に広がる光景だと思います。これは、砂漠のなかでも砂砂漠(すなさばく)と呼ばれるもので、サウジアラビアの東部に広がるルブアルハリ砂漠がその代表的なものとなっています。
しかし、サウジアラビアにおいて、砂漠の魅力は、そのような砂砂漠に留まりません。サウジアラビアの砂漠の魅力は、砂砂漠にあるのではなく、長い年月をかけて自然が生み出したその造形美にあります。
首都リヤドから車を走らせること約100km、そこに、「世界の淵(ふち)」(حافة العالم)と呼ばれる崖があります。ただの崖っぷちではありません。世界の崖っぷちです。。笑
ここに行けば、どのような崖っぷちな状況になってもきっと大丈夫。そう思わせてくれる、そんな場所です。
2. 砂漠の巨大クレーター
サウジアラビア西部の砂漠地帯に突如として現れるワーバ・クレーター(فوهة الوعبة)は、世界屈指の規模を誇る火山クレーターです。
クレーターの幅は約2kmと非常に大きく、まさに圧巻。。
降水が少なく、風化が起こりにくいアラビア半島ではありますが、このようなクレーターがみられる場所は他に探してもまずありません。サウジアラビアでしか見られない風景のひとつといえるでしょう。
以前、火山クレーターか溶岩クレーターかで論争があったそうですが、周辺には溶岩でできた地形が広がっているほか、クレーター周辺に地球外の天体の痕跡が見当たらないことから、今では火山クレーターということで話がまとまっているようです。
3. 古代アラビアの首都
アル=ファーウ(قرية الفاو)は、アラブ人遊牧民の王国「キンダ王国」の最初の首都として繁栄した都市遺跡です。キンダ王国は、アラビア半島の交易ルートの安定を求めたアラビア南部の「ヒムヤル王国」の庇護を受け、中央アラビアのアラブ人部族を統合して建国されました。
この王国は、529年ごろ、メソポタミアのアラブ人王朝「ラフム朝」の攻撃で滅亡してしまいましたが、ムハンマドがアラビア半島にイスラーム共同体を築き上げる前の時代にアラビア半島の遊牧民が団結して王国を築き上げていたという点で非常に評価されるものです。
イスラーム以前のサウジアラビア中部の代表的な遺跡として、ぜひ訪問地リストに加えていただければと思います!
4. 新バビロニア最後の王が滞在
サウジアラビア北部の都市遺跡タイマーは、古代メソポタミアの王朝「新バビロニア」の最後の王であるナボニドゥスが約10年にわたり過ごした地として知られています。
そんなタイマーの町の西方にはナボニドゥスの時代の遺構「アル=ハムラ宮殿」がありますが、こちらは残念ながら非公開。他方、町の中心部にはナボニドゥスが築いた井戸「ビイル・ハッダージ」(بئر هداج)は一般に公開されていて必見です。
ビイル・ハッダージは、ナボニドゥスがこの地を去ったあともこの地のアラブ人部族に利用され続けました。そもそも、タイマーはナボニドゥスが来る以前からアラブ人部族の都市として機能してきた町です。旧約聖書のイザヤ書には、アラブ人が住む地域のひとつとして「テマの地」という文字が出てきます。
5. クルアーンに登場する墓石群
バックパッカーにおなじみ、「中東の3P」(※パルミラ、ペトラ、ペルセポリスの総称)のひとつ「ペトラ遺跡」と並び評される遺跡、マダイン・サーレハ。
アラブ人の一部族に端を発する交易の民ナバテア人の遺跡としては、首都ペトラに次ぐ二番目の規模となっており、また、最大規模の墓石群でもあります。
そんなマダイン・サーレハは、クルアーンでは「アル=ヒジュル」との地名で登場し、この地にいた「サムード人」という人々がアッラーに背いたため呪われたとの記述があります。
こうして呪われた地といういわくつきの土地となったマダイン・サーレハですが、サウジアラビア初の世界遺産にも登録された場所でもあり、観光客にとっては必見の地でもあります。
サウジアラビア南西部の町アブハーから西に約20kmの場所にある村「リジャール・アルマア」(قرية رجال ألمع)は、サウジアラビアでも最も美しい村として知られています。
この町を特徴づけるのは、なんといってもその独特な建築スタイル。この地域の建築は、天然の石と木、土器を組み合わせて作られます。一見簡易な建築スタイルのように感じられますが、この村の建物の多くはなんと4階建ての高層住宅。その先人の知恵には感嘆せずにはいられません。
建築様式が独特で、かつフォトジェニックな村という点から考えると、この村は、日本で言えば白川郷のような感じの場所。サウジアラビアの秘境村として、ぜひ訪問リストに加えていただければと思います。
2019年1月現在、ユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されています。
7. 天空の城塞都市
サウジアラビア南西部にある村、ディー・アイン(قرية ذي عين)は、白い岩肌が特徴的な岩山の上に築かれた伝統的な村です。
この村は約400年の歴史を持っていますが、サウジアラビア建国後の急速な近代化に伴い、全村民がこの村を離れたため、廃村となってしまいました。その結果、かえってサウジアラビア建国以前の山岳部族の伝統的な生活の痕跡として注目を浴びるに至っています。
小規模な村でありながら、村の周囲には防衛のための城壁が築かれ、まさに城塞都市の様相を呈しています。ここディー・アインはサウジアラビアの秘境中の秘境ですが、サウジアラビア政府も観光地としての可能性に注目し、遺跡村として村を整備しているようです。
2019年1月現在、ユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されています。
8. サウド王家誕生の地
首都リヤドの西方に位置するオアシス都市ディルイーヤは、サウード家が初めての王国を築いた場所として知られています。
この辺は私の関心分野なので詳しく書くときりがないのですが・・・(笑)、簡単に言えば、サウジアラビアの礎がこの地で築かれたというその一点でみても非常に歴史的に重要な場所なんです。
サウード家がオスマン帝国からメッカを奪い取ったことでその報復に遭い、ディルイーヤは徹底的な破壊を受けましたが、かえって近代化を免れたことで、アラビア半島の伝統的な建築を残す貴重な歴史的遺産として2014年に世界文化遺産に登録されることになりました。
こうして世界的にもその価値が認められたわけですが、サウジ政府としても、自国の王家の出身地として大々的に宣伝したいわけで、丁寧な修復工事ののちに一般公開も行っています。
9. 世界一の海でダイブ
サウジアラビア西部は、世界でも最もダイビングが盛んな海のひとつ、紅海に面しています。紅海は周辺に砂漠地帯しかないため、流入河川がないに等しく、世界でも特に透明度の高い海として知られています。
日本には慶良間諸島があるのにわざわざ海外で、、なんて思っていた私でしたが、紅海でイルカとダイビングして以来、紅海の魅力にハマってしまいました。確かに地上は砂漠だらけで殺風景かもしれませんが、その海のなかには一面のサンゴの森が広がっています。
サウジアラビアは、そのお国柄、国内のダイビング人口も少ないため、サウジアラビアの海は他の国と比べると手つかずと言ってもよいレベルで残されています。まさに海のラストフロンティアといったところでしょう。。
10. サウジ人
もう、書きながらずっとこれが言いたくてたまりませんでした。
サウジアラビアでは、旅の先々で素敵な出会いがあります。国自体は伝統的に観光客の受け入れに積極的ではありませんが、実際に街角に出ると、歓迎の声をあちこちで聞くことになるでしょう。
いずれ観光立国になるにつれて観光客慣れしてくることになるのかもしれませんが、現時点では、外国からの観光客と言えばもてなしてくれること間違いなしです。
ここまで9つのオススメスポットを取り上げましたが、正直サウジアラビアの見どころはまだまだ書き足りていないのが実情です。世界遺産の登録案件すらほとんど取り上げられていません。でも、それでもここでサウジ人というトピックを取り上げたのには訳があります。
というのも、実際に旅をしていると、観光資源の有無というよりは、むしろ旅先での出会いのほうが旅の満足度を左右することが多いんです。これは、私が88か国を旅するなかで感じてきたことでもあります。
その意味では、サウジアラビアが外れになる確率は限りなくゼロに近く、実際、サウジアラビアを訪問して嫌な思いをしたという方に未だ会ったことがありません。
もちろん、どこの国にもいい人と悪い人がいます。しかし、イスラーム法が国の隅々にまで浸透したサウジアラビアでは、「旅人を歓待する」というクルアーンの教えを純粋に守る方が多い印象を受けました。
そのため、仮にトラブルに巻き込まれたとしても、周りのサウジ人がきっと助けてくれるはず。観光インフラが整っていない国で旅をするのは大変ですが、イスラームの価値観とその土地固有の文化を尊重する姿勢さえあれば、サウジアラビアを心ゆくまで満喫できるはずです。
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【シリア】キリストの言葉が息づく町、マアルーラ
キリスト教の伝統息づく町
シリアについて調べていると面白い町を発見したので、ちょっとブログに起こそうと思います。
今回取り上げるのは、首都ダマスカスとホムスの間に位置する町マアルーラです。
約2000人ほどの小さな町ですが、その割に結構ユニーク・・・!
ここには、世界で3つの村しか残っていない現代西方アラム語という言語を話す人々が暮らしているのです。
内戦の前は多くの観光客が足を運んでいたとのことですが、すみません、初耳でした。
シリアの多様性、魅力の典型的な例だ・・・と一人で感動していました。
こういうのを調べるのは結構楽しいですね。
初期キリスト教の伝承の地
伝承によると、この町は、パウロによって洗礼を授けられたセレウコス王家の末裔、聖テクラがローマ軍の追手から逃げ延びた地であると伝えられています。この追手は彼女の父親が差し向けたものだというから何とも恐ろしい話です。。
彼女はマアルーラの山中の洞窟に身を潜めてローマ軍の追撃から自身と信仰を守り、聖人として列せられています。
彼女がその後の生涯にわたって身を隠したとされる洞窟には聖テクラ修道院が設立されています。一説では、その後キリキア地方のセレウキア(現在のシリフケ)に移住したともいわれていますが、本当のことはよくわかりません。
とはいえ、上述の伝承が物語るように、マアルーラは極めて初期の時代からキリスト教化が進んだということになります。
今も話される古代言語
マアルーラの住民の大半はキリスト教徒で、正教会系住民とカトリック系住民が混住する町となっています。
※シリアの宗教分布については、また別の機会に詳しく紹介しますのであしからず。。念のため言うと、ここで言う正教会系住民のほとんどはアンティオキア総主教庁に、カトリック系住民のほとんどはメルキト・ギリシャ典礼カトリック教会に属しています。
この町の住民は、アラビア語の浸透により多くの地域で消滅した西方アラム語の生き残りである現代西方アラム語を話しています。キリストが話したアラム語のガリラヤ方言も西方アラム語に区分されているため、実質的にキリストの言葉を話す最後の人々ということになります。
もう、ロマンを感じずにはいられません。。
復興が進む町
マアルーラでは、2013年の反体制派の侵攻に伴い戦闘地域となり、多くの建物で被害が生じました。しかし、聖テクラ修道院は、2014年から続いた修復工事が功を奏し、2018年8月には巡礼者、観光客の受け入れを再開しています。
※4世紀から続くこの町最古の修道院である聖サルキス修道院は、反体制派の拠点となったホテルに近接していたことから大きな損壊が認められ、いつ受け入れを開始できるのか不透明なままのようです。いち早く復興することを願います。
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【シリア】アサシンクリードの舞台「マスヤーフ城」
「暗殺教団」伝説の地
2008年に登場し、世界的に人気を博したゲーム「アサシンクリード」。
読者の皆さんのなかには、一度はプレイした方もいらっしゃるのではないでしょうか。
※ちなみに私は一度もプレイしていません。。笑
今回は、アラブをちょっとでも身近に感じてもらいたい、ということで、ゲームの舞台という観点からアラブ世界の見どころを見てみようと思いました!
今回取り上げるマスヤーフ城は、アサシンクリードで暗殺教団の根城として登場する「マシャフ砦」にあたるものです。本作を一度でもプレイしたことのある方でしたら、このネタは胸アツ間違いなしです。。
ということで、これからマスヤーフ城の概要を紹介します!
ニザール派の拠点
さっそく訳のわからない単語が出てきた、、と思った方へ。。
この単語は城史を理解するうえで重要な知識になるので、きっちり触れます。安心してください。
ニザール派は、シーア派の一派であるイスマーイール派の後継者争いに起因して分離した宗派です。1094年、兄のニザールではなく弟に指導者(カリフ、イマーム)の地位が移譲されたことで、ニザールを支持する勢力が分離して成立しました。
彼らは、権力闘争に敗れたニザールの息子ハサニ・サッバーフが居城としていたアラム―ト城(現イラン)を拠点に勢力を伸長、一帯のイスラーム諸王朝と対立し、ときに暗殺の実行という強硬手段にも出ました。そんなニザール派がシリアで築いた拠点のひとつとなったのがマスヤーフ城でした。
「暗殺教団」の根城
世界で約1億本のメガヒットを叩き出したゲームシリーズ「アサシンクリード」。
その初作品の主人公アルタイル生誕の地で、暗殺教団の根城とされた「マシャフ砦」は、まさにここマスヤーフ城のことを指しています。
当然、ゲームはゲームですので、アサシンクリードのストーリーと史実とは必ずしも一致しません。しかし、ここに教団の根城が置かれていたということは明白な事実であり、歴史的に重要なことは間違いありません。
YouTubeでアサシンクリードのマシャフ城の様子を見ましたが、もうロマンを感じずにはいられませんでした。タイムスリップして当時の様子を見てみたいものです・・・。本当に。
シリア諸勢力との対立
1162年、マスヤーフ城に拠点を置いたシリアの二ザール派の指導者となったラシード・ウッディーン・シナーンは、教団の勢力圏を守るため、周辺の諸勢力との外交戦を開始しました。
当時、シリアはまさに群雄割拠の様相を呈していました。
シリアでは、「聖地奪還」の旗印のもとヨーロッパから侵攻した十字軍国家が建国され、それに対し、アレッポを拠点とするザンギー朝や、イスラーム世界の英雄サラーフッディーンの勢力が対抗していました。
実際、弱小勢力のニザール派がこの乱世を生き延びるには、なりふり構っていられなかったのでしょう。教団を守るためなら敵対勢力の殺害も厭わないという思想のもと、教団兵士(フィダーイー)が厳しい訓練を重ねていたのも納得のいく話です。
ニザール派による暗殺工作
多くの事例について真偽は定かではないものの、十字軍国家で頻発した有力者の暗殺はニザール派の暗殺工作によるものだという説もあります(一部の事案については立証済)。個人的には、のちに教団が「暗殺教団」としてヨーロッパに流布する契機になったのも、十字軍の伝承に拠るところが大きいのではないかと思います。
このニザール派の前では、英雄サラーフッディーンでさえも暗殺の対象とされていました。2度にわたる暗殺未遂ののち、サラーフッディーンはついに教団の拠点マスヤーフへの進軍を決意しました。
この攻囲城、サラーフッディーンの軍勢は城を包囲したのみで、戦うことなく休戦協定が結ばれました。このサラーフッディーンの心変わりの理由について、言い伝えでは、寝室に毒を持ち込まれたことに恐れをなして攻撃を諦めたと伝えられています。
この逸話を聞くと、「暗殺教団」のイメージが増幅されるかもしれませんが、形成期の教団にとっては苦難の時代であったのも確かで、教団はこの時代の苦難を乗り越え、現在もイスラーム世界の少数宗派として受け継がれています。
ニザール派財団による修復
1270年にマムルーク朝の指導者バイバルスにより廃城とされたのち、マスヤーフ城は二度と城としての機能を果たさなくなりました。
以後7世紀以上も放置された城でしたが、ニザール派の第49代イマーム(指導者)のアーガー・ハーン4世が運営するアーガー・ハーン開発ネットワークのもとで2000年から修復工事が行われました。
※2019年1月現在、シリアは未だ内戦中ですが、インスタグラムの投稿写真を見る限りマスヤーフ城は戦火に遭うことなく保存されていると思われます。マスヤーフ城一帯はシリア政府側の勢力圏にあるので、おそらく今後も破壊されることはないでしょう。
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イラク戦争開戦日によせて
(写真:バビロンのライオン像にて 撮影日:2017年3月9日)
イラク戦争が始まった2003年3月から今年で14年。バグダッドの地に降り立ってから初めてこの日を迎える。今年のイラク訪問で感じたことを風化させてはならない、その想いが冷めないうちに、こうして文章として残しておこうと思う。
(写真:クーファの大モスク 撮影日:2017年3月10日)
僕が初めてここイラクの地を踏んだのは今回が初めてではない。これまでに2015年、2016年とイラク北部のクルディスタン地域を二度訪問している(※帰属未確定のキルクークを含む)。
(写真:アルビールの城塞にて 撮影日:2015年2月4日)
そもそも単身赴任で海外を飛び回る父のもとで育った自分は周囲と比べても海外への関心が強いほうだったように思う。幼少期はさまざまなものから影響を受けるものだが、僕の場合は海外志向の両親の価値観が影響してか、とりわけ世界の時事を伝えるニュース番組やドキュメンタリー番組に影響を受けた。この不正に満ち溢れている世界を自分の力で少しでも変えたい、僕はこの頃からそう願ってきた。長期にわたる個人的ないじめの経験もこの思いに拍車をかけた。
(写真:バグダッドのテレビ塔 撮影日:2017年3月7日)
多感な幼少期に勃発したイラク戦争(第二次湾岸戦争)は、とりわけこの中東という地域への関心を深めるきっかけとなった。現在アラブ熱を燃やす自分の端緒はこのときから始まったといえる。とはいえ、小学3年生当時の自分にはイラク史の知識などほとんどなかった。僕が知っていたイラクに関する情報は、イラクがサダム・フセインという独裁者によって支配されているということ、また、彼が幾度と周辺国に対して戦争を繰り返してきた「悪い人」だということ、ただそれだけだった。
(写真:バグダッド鉄道駅にて 撮影日:2017年3月6日)
2003年のこの日、テレビは一面イラク戦争の報道でいっぱいだった。どのチャンネルをつけても目に入ってくるのは暗闇のなかで燃え上がる首都バグダッドの映像だけだった。一度の爆発でどれだけの人が命を奪われているのか、それを考えずにはいられなかった。このイラク戦争開戦から僕は毎日のようにイラクに関するニュースにかじりつくようになった。開戦からまもなく首都バグダッドは米軍の猛攻を前に陥落、サダム・フセインの銅像は広場の群衆によってなぎ倒された。その様子をニュースで見ながら当時の自分はその戦争の進捗状況に心の底から安堵したものだった。日本の平和教育を受けて育った自分が現代戦の実態を全く把握していなかったこと、また、テレビを通じて提供されるイラク戦争の報道ベースでは極めてクリーンに写っていたこともあり、あっけないバグダッドの陥落はもはや「感動的」でさえあった。同年5月にはブッシュ政権により公式にイラク戦争の終結宣言がなされたが、以後も自衛隊の派遣や日本人殺害事件など、イラクという国は僕に問題提起を常に与え続けてきた。このように、僕の中東に対する関心の原点はこの地にあり、その意味でもこのイラクとの関わりは僕にとって非常に宿命的なものだったと言える。僕がこうしてイラクという地にこだわり続けている背景にはこの14年間の問題意識の蓄積があるわけだ。
(写真:大量虐殺で知られるクルド人の町ハラブジャにて 撮影日:2016年9月14日)
大学に入学すると、いよいよ自由に旅ができる環境が整ってきた。実際に旅を続けるうちに親の干渉や反対も次第に薄れていった(1年生の8月にコンゴ民主共和国訪問を家族の反対で断念してから1か月弱のうちにパキスタン訪問を叶えるという急展開ぶりがそれを物語る)。両親が僕の旅に関してますます寛容になり始めた2014年からは積極的に中東へも足を運ぶようになった。2014年2月初頭にはカタールを経由してイエメンを訪問(それぞれアラブ世界では2カ国目、3カ国目)、同月中旬には高校時代からの夢だったイラン訪問も叶えた。この1カ月に及ぶイラン訪問は隣国イラクへの想いをさらに増幅する結果となった。この頃には、どれだけ周囲が反対しようが絶対にイラク訪問は実現してやる、と思うようになっていた。
(写真:多民族都市キルクークにて 撮影日:2016年9月13日)
2015年2月、アラブ世界では4か国目の訪問国としてイラク北部のクルディスタン地域を訪問、長年の夢を叶えることになった。ダーイシュによる日本人人質事件の衝撃から一時は断念も考えたなかでの訪問であった。結果的には予想した通りクルディスタン地域の治安は申し分なく、治安面で不安を感じることは一切なかったが、クルド民族旗ばかりがはためくクルディスタンの主都アルビールはもはや別の国の様相を呈していた。イラク国旗は政府庁舎や宿泊施設でクルド民族旗とともにはためくだけで、町全体としてはクルドの地、という意識が浸透していた。イラク戦争後に誕生した新生イラクはバグダッドの中央政府とクルディスタン地域のクルディスタン地域政府の連邦制をとる連邦制国家となっているが、このことはイラクのメインランド(以後「イラク本土」と記すこととする)への憧れをさらに加速させる結果となった。昨年9月には中央政府とクルディスタン地域政府の係争地であるキルクークを訪問、これを境にいよいよイラク本土訪問への想いは加速した。結果的にその半年後というすさまじい早さでバグダッドに降り立つことととなったのだが、この14年の歳月を考えると、ここまでの道のりは極めて長いものだった。
(写真:古代メソポタミア文明の中心地ウルク 撮影日:2017年3月12日)
古代オリエントの文学では最高傑作とされる『ギルガメシュ叙事詩』を生んだウルク、古代メソポタミア最大の宗教都市ニップル、世界最初の王権誕生の地エリドゥ、三大宗教の祖アブラハムを輩出したウル、旧約聖書のバベルの塔の舞台ともなった古代バビロニアの王都バビロン、パルティア後期からササン朝ペルシア滅亡まで栄えた帝都クテシフォン、4代目カリフ=アリー暗殺の地クーファ、およびその埋葬地ナジャフ、3代目イマーム=フセイン殉教の地カルバラー、アラビアンナイトこと『千夜一夜物語』の舞台となったアッバース朝の都バグダッド、かつて「中東のベニス」と呼ばれた南部の大都市バスラ、イラク戦争後の宗派間抗争を象徴するアスカリ廟爆破事件(2006年)の勃発地サーマッラー・・・イラクは古代史から現代史まで常に重要なキーポイントを担ってきた。これらの場所を一度に訪問するというすさまじい濃密な旅となっているが、これからはその旅の内容に見合うだけの行動をこれから起こさねばならないと思っている。
(写真:バビロン第3王朝の都市ドゥル・クリガルズ 撮影日:2017年3月6日)
文明誕生の地イラクが5000年以上のときを経て辿り着いた現実を目の当たりにするたび、僕の心のなかで「感動」と「虚しさ」という相反する2つの感情が交錯した。人類がより良い生活(=豊かさ)を求めて技術を革新する「文明」という概念を生み出したのがここメソポタミアだった。ウバイド期からウルク期への移行期にあたる紀元前3500年ごろからシュメール人の都市国家が人口増加にあわせて発展し、文明化の流れが世界へと拡散していったわけだが、そんな文明を生み出したシュメールの偉大な遺跡の数々を訪問したあとに「現代文明の利器」であるインターネットをつなぐたび、僕は文明のもたらした結果をみて虚しさを感じずにはいられなかったのである。5500年にも及ぶ技術革新を積み重ねたにもかかわらず、どうして人は未だに幸せを手に入れられていないのか。どうして人はこうも醜い争いを積み重ねるのか。どうして人の欲はこうも尽きないのか、人類は歴史が進むにつれて知恵をつけたように見えるが、実は文明の黎明期からその中身は一切変わっていないのではないか…。
(写真:夕暮れのサマーワ 撮影日:2017年3月11日)
イギリスが旧オスマン帝国の3州(バグダッド、バスラ、モスル)を合併させて「イラク」の枠組みを成立させてからもうすぐ100年になろうとしている。また、この「人工国家」がイラク戦争を契機に「破綻国家」となってからもう14年が過ぎようとしている。今も北西部の大都市モスルではイラク軍やペシュメルガなどの連合軍とダーイシュとの戦闘が続き、バグダッドからサーマッラーに向かう幹線道路では、戦場モスルに向かう若いバシジ(シーア派民兵)や物資を積んだ車両を良く見かける。ナジャフやカルバラーの聖廟の敷地内では戦場で命を落とした「殉教者」たちの棺が行き交う。モスルのような戦場でない普通の町でも、厳重なチェックポイントや定期的な治安部隊のパトロールがなければ現在の比較的安定した治安は維持できない。国民も国土もフセイン政権時代から続く長年の戦争と内戦で疲弊している。
(アッバース朝時代の代表的建築ムスタンスィリーヤ学院にて 撮影日:2017年3月6日)
新生イラクの復興を心から願っている人々は国内のみならず国外にもたくさんいるだろう。現に、エイドワーカーとしてイラクの支援に関わっている日本人も少なくない。しかし、当のイラク政府の政治情勢や関係各国の思惑などが相まってイラクの復興は未だ遅々として進んでいない。かつてアメリカや欧米諸国、日本などが投入した復興支援金は当のイラク政府の腐敗によりほとんど機能しなかったし、近隣の湾岸諸国は新生イラクの復興事業にほとんど協力しなかった。逆に、多数のアラブ人「義勇兵」が反政府勢力としてイラク国内に流入したことがイラクの治安悪化の一端を担った。友邦であるはずのアラブ諸国からの支援がないなか、イラクの復興に最も寄与している国がかつて最大の敵国として対立していたイランであるという事実は非常に皮肉極まりない事実だ(当然ながら国民レベルでの対イラン感情は極めて悪い)。
(写真:第4代正統カリフ(シーア派初代イマーム)アリー廟 撮影日:2017年3月10日)
5000年以上の歴史を有するメソポタミアの地に誕生した国家イラク。この地に魅せられた者として、現在イラクが直面している問題の数々には非常に心苦しい思いをしている。まさか現実を目の当たりにしていながらのけのけと人生の快楽に突き進むなんて気持ちはさらさらない。こうしてイラクが未だ悶え続けているこの時期に当地を訪問した自分は、これからイラクの未来のためにも行動を起こさなければならない大いなる責任がある。こんな僕にだってきっとイラクの平和実現のために貢献できることがたくさんあるだろう。それをこれから地道にコツコツと積み重ねていくこと、それが僕に与えられた使命だと信じている。
イラクの平和・再興を願って。
2017年3月20日